「逃げるは恥だが役に立つ」においての呪いとはなんだったのか ポジモン・ユリ編

逃げ恥が終わってしまった。

最終回を楽しみにしつつも終わってほしくなくて複雑なきもちだった。

 

このドラマはすごい。初回から視聴率を落とすことなくむしろ終わりに近づくにつれて上がっていき、普段は民放のドラマなんて観なさそうな人が「逃げ恥面白い!」と言い、どこを向いても恋ダンスの話題でもちきり。この大流行りのなかで、最終回を観た私は自分の中に巣食っていた「呪い」が、すこしだけ救われたことに感謝してちょっと泣いていた。

 

逃げ恥の視聴率が上がっていくにつれ、twitterのTLも火曜夜から水曜朝は逃げ恥関連のツイートで埋まるようになっていった。

その中でちらほら見受けられるようになったのは、「呪い」という単語である。

私のフォローしている人やフォロワーの少なくない数が、逃げ恥の中に「呪い」の存在を読み取っていた。

 

ある人にかけられている「呪い」がどのようなものなのか、どのように扱われるのか、そしてどのように「呪い」から解放されるのか……

逃げ恥がこんなにブームになったのはガッキー・星野源のかわいさやコメディアンとしての良さがウケただけでなく、「呪い」の描写をしたからだと思う。

誰もがあるある、と頷きそうな、どこにでもある強固な「呪い」、とくに女性をむしばむ「呪い」の描写が抜群に的を得ていたのだ。

 

前置きが長くなったが、逃げ恥の中で「呪い」がどのように表現されたのか、わずかながら書いていこう。

 

☆ポジモンとユリ

 

ポジモンで検索すると「ポジモン 嫌い」と出てきたが私はそんなに嫌いではない。奥さんに買ってやれと平匡に美味しい生蕎麦を教えてあげる親切なヤツだし、誤解を恐れずに言えばユリの「呪い」を最終的にとくきっかけになったのは、他ならぬ彼女だからだ。

 

みくりのおば・ユリは処女のままアラフィフを迎えたキャリアウーマンである。

ユリにかけられた「呪い」は、まず彼女が女性の自由をコンセプトにした広告を手がけた時のシーンで描写される。

 

広告が知らない間に「愛され」を謳うダサピンクなシロモノにすげかえられ、変更に抗議したユリは、社内の男性に結婚できないから必死だと陰口を叩かれてしまう。

無論彼女が独身であることと抗議には何の関係もないし、抗議は正当なものだった。だが、一度放たれた悪意は容赦なく確実なシミになって尊厳を汚す。

彼女は多分、今まで「愛され」ることが女性の至上命題だと押し付けられる風潮に抗ってきただろう。「愛され」ろという女性にあまねくかけられる「呪い」、おしつけられるジェンダーは、とても古く強い。このドラマのタイトルは得意分野で勝負しろという意味のことわざだが、女性はそれをしにくい社会なのだ。(女性はケアが天職だとか未だに勝手に語られるし、たとえ勉強や趣味に打ち込んでいて恋愛や結婚は別にいらないという状態でも恋愛市場に勝手に放り込まれ勝手に算定されがちだ)

その「呪い」から女性が逃げられて自由を手にできるフィールドを、ユリは仕事や生きざまを通じてなんとか作りだそうとしてきたのだろう。

つい最近もおっさんがアイドルに勉強ができても男に好かれなきゃ無意味といった内容の歌を歌わせたような社会で、ユリは風見に語ったように、結婚してなくてもいい、かっこよくあれるんだと年下の女の子たちが思えるようは存在になろうとしてきた。

だけど、それと傷つくのとはまた別の話だ。戦う人=理不尽な悪意や封じ込めに全く傷つかないということではない。

そして傷ついたユリに風見があくまで対等に接することで、彼女はケアされたように見えた。

 

が!前述したように、私は最終的にユリの「呪い」をといたのはポジモンだと考える。

 

風見がユリに真剣な好意を伝えるも、彼女はしりぞけてしまう(ちなみにこの辺りのユリは、自分が処女だった頃の自意識過剰さや挙動不審さを想起させて直視できなかった…処女に抱きたいとか言ってもキャパオーバーするって!風見さ〜ん)。

 

ポジモンがユリに直接対決しにいった場面は、ユリの「そんな呪いからはさっさと逃げちゃいなさい」という名言が視聴者から喝采を浴びた。私もそのことばにはおおいに胸をうたれたが、その後ポジモンがユリのもう一つの「呪い」を浮かびあがらせたことに心のなかの何かがとても動いたのだ。

 

ポジモンは最後の青空市場には登場しない。だが、ポジモンが風見を媒介にユリに伝えたことがある。

「おねえさんは風見さんのことが好きだと思う」「幸せな50歳を見せてみろ」

ポジモン判断ではユリは風見のことが好きで、なおかつ現在”幸せ”ではない。

これこそ、ポジモンが浮かびあがらせた、ユリにかけられたもう一つの「呪い」だ。

 

その詳細を述べる前に、ポジモン自身の「呪い」についても触れる必要があるだろう。

二度言うが、ポジモンは割といいヤツだし嫌いではない。そんなポジモンが悪辣なことばをユリに投げかけたのは、二倍以上年上の女に好きな相手をとられた敗北感が受け入れられなかったからだろう。

風見の分析によるとポジモンは消費されるくらいなら消費する側に回ってやるという気概の持ち主であった。それはそれで主体的に選び取った生き方なのかもしれないが、少なくともユリはあの場でポジモンが女性であるゆえに、若さを価値とするジェンダーにがんじがらめになった苦しさを感じた。消費する側に回ったとしても、若さや媚びを価値とする戦場というのは、息苦しい。だから、逃げてもいい、別の評価軸だってあるんだと、ポジモンにかけられた「呪い」をとくことばをかけた。

 

さて、そんなユリが風見を「年が17も離れている」からということで距離を置いてしまった。年齢を理由に好きな人に対して逃げ腰になっている姿に対して、ポジモンはどう思ったのだろうか。

ポジモンが風見をとおしてユリに伝えたメッセージは、おそらく、「私に別の可能性を提示しておきながら、あんたが一番既存の価値観にがんじがらめで弱っているじゃないか」という気持ちのあらわれではないか?

すでに述べたように、戦うことと傷つかないこととは同義ではない。奇しくもみくりが小さな傷でも繰り返せば深手になるとモノローグしていたように、ユリも既存のジェンダー意識に対しての抵抗を繰り返す中で悪意のシミに少しずつむしばまれて知らず知らずのうちに自信を喪失していると私は考える。それは私にとってかなり覚えのあることだ。草の根ラディカルフェミニストを名乗って女性に対する偏見や媚びをおしつけられる風潮に対抗している一方で、たとえば結婚できない自分(それがしたくないという気持ちを尊重した選択であっても)に自信を喪失している部分はある。近しい男性が女性蔑視的だったり、社会から勝手に恋愛市場に放り込まれたりしてつけられたシミは、一度染みると簡単に消えてはくれない。

 

それがユリの場合には年齢を理由に風見を避けるという形で出てしまった。ポジモンは、戦う女性が戦えば戦うほどいつしか深手の傷を負っていき自分自身ではリカバーしきれない構造を浮かびあがらせ、それだけでなく「幸せな50歳を見せろ」と望む姿を見せることで、ユリが自らA.T.フィールドを張ってしまうことを間接的ではあるが阻止した。

私はこの点において、ポジモンを賞賛するのである。

ユリにかけられた「呪い」とダブルバインド状態、そこから一歩踏み出させる表現は、ユリと風見の人間関係だけではなくポジモンの目をとおしたことで完璧なものになったといえるのではないか。彼女たちは相互に「呪い」をとくきっかけを作ったのではないかと、考えている。

 

 

 

家出応援アクティヴィティ「女のいない女の家」休止について

家出応援アクティヴィティ「女のいない女の家」(以下、女の家)は一旦止める。

ドネーションしてくださった方もいるので理由と経緯を記す。

女の家の来訪者で、それ以後関わり続けてきた人(以下、A)に、わたしのトラウマがフラッシュバックする状況を作られるという被害を受けた。
Aはわたしがトラウマになったこともその事情も知っているので、当然わたしはAに怒った。
具体的にAの行動のうち何がトラウマに抵触したのか、なぜ彼女に怒っているのか簡潔に書いた。

Aは「w」と返してきた。
この返信と、過去の行動パターンから、1対1の話し合いを出来る相手ではないと判断した。

余談だが、モラハラ等の被害にあったら加害者とはサシで話しないほうがよい。第三者のいる場所での話を薦める。人の目があれば、加害者の論理破綻した物言いや、人格批判・罵倒にもっていかれることを阻止できるからだ。

…というわけで、Aには第三者のいるところでしか話はしないと伝えたが、ここでAが身を寄せていた住み開き先を運営している知人女性Bからも二次被害を被った。

共通の友人Xがわたしといる時、たまたまXの携帯にAから着信があった。Xが話をしてみると言って出たが、電話中にBが「A!謝らなくていい!」と言っているのが聞こえた。無関係なひとが、加害者を擁護するために介入してきたのだ。

わたしとBは既知であり、フェミニストとして一緒になにかやろうとしたことがあったが、後述の理由により距離を置いた。
Aがわたしを含む身近な人に無茶を言ってふりまわす試し行動をしていたことがあって、わたしは彼女に怒ったが、Bに「シェアスペースにはコミュニケーションにテクニックの要るひとたちが集まるとわかってて彼らに文句をいうのは、砂漠で水がないと怒ってるのと同じだ」と批判された。
「砂漠」で水分奪ってる側を擁護するひととは相容れないから、「もう会いたくない」と連絡した。
他人を傷つけても謝らなくていいと思ってるひとのことを許容できない。ダメなものはダメだ。事情を抱えているからといって他人を傷つけていい理由にはならない。もしやらかしてしまったら、非を認めて謝った先にしか対等な人間同士の関係は築けない。差別されたからといって自分も差別していいことにはならないのと同じだ。そのひとが社会のre-buildをつくりだしていることにも素直に賛同できなくなった。
うまく説明できないが、動物をポコポコ殴りながら「いのちをだいじに」とスローガン掲げるようなものではないのか。

去年くらいから、少しずつ感じていた、シェアスペースの「傷ついたひとたち、生きづらいひとたちが身近な他者を傷つける」問題点が無視できないほど自分の中で大きくなった。
シェアスペースの存在意義も、正直いってわからなくなりつつある。

生きづらいひとの受け皿になること自体にはあまり興味がない。生きづらさを緩和し、自立できる状況をつくりたいのだ。女の家も、気分転換での利用のほか、抱えて苦しんでいることがあるならば、支援ポイントまでのアクセスを補助したい、という目標があった。が、現状と理想の乖離を埋めるためになにが必要なのか、リスクヘッジも含めて、練り直すと決めた。

わたしは草の根フェミニストとして、ミソジニーに抗ってきた。
AもBもそこに賛同し、それぞれ「フェミニストとしてがんばろう」という旨のメッセージをくれたこともある。
社会運動などオルタナティブなことをする界隈でミソジニーや性暴力の問題が無視されがちなことに憤怒し、同じおもいを抱えるひとと共闘しようとした。
しかし、共闘するはずのおんなたちは身近な他者への加害を容認した。
われわれが批判してきたクソミソ(クソなミソジニー野郎)となにがちがうのか。彼らが自己の問題から逃避し暴力をふるって開き直ることに怒ってきたのに、批判するおんなにもその構造はあったと今更ながら気づいた。
大変なひとが多い場所だから暴力を受ける覚悟をしなければならないという言説をわたしは許容しない。そんな言説がまかりとおるところに行く価値、あるのか。

現在、可視化された新しい問題に対して、うまく言葉をつむげない。わたしにはこの憤りやシラケや失望を昇華して、新しい論理を組み立てる時間が必要だ。

なので、一旦試みから撤退する。再開は未定だ。やるとしても、女の家のコンセプトはともかく、よりよいストラテジーとかアプローチとかを手に入れてからだ。ミソジニーの問題だと思っていたことが、もっと広範な問題だということがわかったから、わたしは思考して仕切り直す。

えろともだち

イライラするとクジラックスや朝凪を読む傾向にあるがなぜだかわからない。
特に朝凪は露骨な女性蔑視(と女性崇拝)があけすけでイヤになることさえあるのに、どうしてかやりきれない状態におちいると読みたくなる。薬物と快楽堕ちが好きだからというのもあるだろうがやはりあの作風を求めている。
理不尽さへの現実逃避に理不尽なストーリーのエロ漫画を選択するのはどういうことだろう?

町田ひらくを貸してくれた人に「これを読んであなたはいたぶられる少女といたぶる男のどちらに感情移入するのか」と聞いた。無論私はいたぶられる少女の方だ。その人は作品によって変わると答えたが、「男の情けなさみたいなものを楽しむために読んでいるフシがある」と言ったのがおもしろかった。

なるほどエロ漫画の加虐者はだいたい情けない。朝凪の作品でもクジラックスの作品でもそうだ。前者は女に神性を押し付けるオールドな身勝手さで、後者は自己にとじこもるか暴力による一時の連帯しかできないコミュニケーション不全者だ。そもそも性的な欲望を制御できないという情けなさもある。なんせエロ漫画だし。

以前「どれだけムカつく奴がいてもそいつがイッている時の顔を想像するとブチギレそうになるのを抑えられる」と言った友人がいた。私にもそういう傾向はある。キモくてムカつくおっさんに絡まれてる時でも「でもこいつにもチンコあるんだよなあ」と考えるととたんにバカバカしくなってしまうのだ。バカバカしいとは軽蔑と哀れみである。欲に左右される器官を所持していることと、そんなものをぶらさげている者がわめいている状況の滑稽さ。
そこには人間のバカバカしさを性に収束して嘲笑うことで自分へ向かう理不尽な攻撃を無力化したいという力学が働いている。

私がイライラすると朝凪やクジラックスを読むのも同じことなのかもしれない。私は多分、暴力的なエロ漫画を通じて男の身勝手さを逆に消費しているのだと思う。被虐者が快楽堕ちしていく過程で興奮しながらついでに加虐者の滑稽さを無意識にせせら笑ってきたのだろう。
性が加虐者と被虐者を転換させ、倒錯的な構造が発生するというへんな現象がおこっている。
まあふだんそんな小難しいこと考えながらエロ漫画読んでないけどね。





あとはロマンティック・ラブ・イデオロギーに即した作品だとフェミニズム的にアラが目立つのでかえって薬物・快楽堕ちのほうがよいという人がいた。加虐者が悪いに決まっているし思いっきりファンタジーなので安心して読めるということだろうか。





能動的最先端

先日男と別れたので自由恋愛に戻った。
たった2ヶ月コンツェルン化しただけなので自由恋愛の神は私をゆるして出戻らせてくれるわ、なんせここ数年ずっとうまくやってきたのだから、と思った。

慣れた世界に戻ったはずだが世界の見え方は違っていた。久々に連絡したボーイフレンドは概ねみんなやさしかった。モテる男はやさしい。傷ついたことを察して癒えるまで好きなだけ頼ればよいと示してくれた。なぜ説明しなくてもわかるのかとたずねると、「君みたいな普段ちゃんとしてるひとに何かあったならわかるしそりゃ心配するよ」とのことだった。
いくらフリースタイルとはいえヨソの男の話なんて聞いて不愉快なことはあっても機嫌がよくなることはないだろうに、とてもありがたかった。

ありがたみの感じ方がちがう。並の感じ方ではなくてひしひしと感じる。
己の空虚を見ないようにするために女を利用するタイプの阿部薫系男子にあたってしまったが、かなりのMPは奪われたもののコアが破壊されていないので大丈夫だ、と思いたい。
私のコアは別れてからわかった。みんながお前はいいヤツだからこんなことで苦しむなと言ってくれるしボーイフレンドがやさしいのは今まで彼らをないがしろにすることがなかったからだ。情けは人のためならずというが相手を大事にしているからいざというとき自分も大事にされる。私は遊び人だが遊び人なりの仁義をとおしている、というか仁義をとおせるような性格だから遊び人でうまくやっていけていたのだろう。
仁義とは人と人との間に発生するものであり、低レベルな遊び人はこれができない。遊び人は内部構造が砂漠であってはいけない。砂漠の乾きに耐えられないからどこかから水分をぶんどって一時しのぎするようでは粋ではない。相手を搾取しなければちゃんと粋でなさけのあるボーイフレンドが残るのだ。


私の他にバタバタと何人か別れていた。しかも長年の友人が多い。昔からの友人が家に来て、女と別れたというのでへえーあんたもと聞くとミョーに自分の話と合致するところがあった。
数年、自由恋愛の徒として聖者になろうと修羅の道を歩んできたひとって、同じような運命たどるのかしら?


我々はインチキ自己肯定に恋愛を利用しない。かといって恋愛に救いをもとめずにいて、これからどうなるのか?歴戦の猛者同士話しているとそんなトピックになった。


どうなるかなんて、わからない。我々はオルタナなのだから!そのへんの空虚ヤリチンとは一線を画しているのだから。最先端をいって、成果はあとからしか見えない。ロールモデルなどないから、よくよく不粋にせぬよう心がけなければならぬ。修羅の道である。それでも我々が誇りを失わないかぎり、およそ人間というものをナメないかぎり、自由恋愛の神は我々に微笑む、のだと信じている。自由恋愛の神の眷属の遊びはまだまだこれからだもの。

圧倒的無成長

クジラックスの「ろりともだち」を再読した。おもしろいけどだからなんやねんという。この話は読者に共感をあたえても救いはもたらさない。 一時の連帯と自己肯定感をもたらすものは暴力でありそれは長続きしない。新井英樹のワールドイズマインを読んだ時と同じがっかり感である。

自身の欲望をコントロールしないことが純粋で自由だという言説には飽き飽きしているがまだマンガの世界では活きているのか。「ろりともだち」でもレイプ犯の2人は自殺するし、結局のところ、他の道を探すしかない。

人間は誰しもマイナスのエネルギーとどう折り合いをつけていくかという問題から逃れられないと思うが、「ろりともだち」も「ワールドイズマイン」もマイナスのエネルギーがあります、だからそれをとりあえず出しますというだけの話だ、それから先をどうするかではなく。作品自体のおもしろさとは関係なくここにモヤる。

 

 

マイナスのエネルギーとどう折り合いをつけるかという問題は、少し前に話題になったディズニーの「アナと雪の女王」にも登場した。

エルサは持って生まれた冷凍能力をもてあまし、生まれて初めて全力を出し美しい氷の城を作った時は独りだった。その後ストーリーの最後で皆の元へ戻った時には能力の使い方が矮小化されていた点について、「抑圧されていない状態ではあれだけ美しいものを作れるのに、皆と生きるにはちっぽけなことにしか能力を発揮してはいけないのか」とコメントした人を見たことがある。

 

それはそれで着眼点だと思うが(特に女児はいいこちゃん幻想をおしつけられ自分の能力をフルに使わせてもらえない抑圧があるから)、あのラストのキモはエルサが笑顔でいるところだ。エルサが自分をコントロールでき、無理なく家族であるアナや他の人と共に居られるようになったことだ。

それは家族といえどもキャラの違うアナと向き合い葛藤したことで得られたものである。

 

「ろりともだち」にはそれがない。主人公は暴力でつながった一時の連帯しかなく、話す言葉はほとんどモノローグである。無論レイプする女児とのコミュニケーションはない。

「ワールドイズマイン」のモンちゃんはマリアには心を開いたが、それは母を求める幼児そのものであり、他者との対峙ではありえない。

 

 

なんか、エヴァ批評で散々言われてたことをまだやってるんだなあ…という状況に厭いている。いつまでも大久保清やってらんないよなあ

その先をどうするんだ、それが知りたいんだ、とここ数年ずっと思っています…

 

生き続ける、を選択し続けるシステムについて

人質について空想した。あの殺されてしまった二名のことではない。あのことが発生するよりもっと前に漠然と、自分にとってどんな条件でも取引に応じて手元に残さなければならないもののことを考えていた。それはたまたま人だったから人質という空想になったけど。


いつの冬だか忘れたけど、とにかく冬、正月も明けてすぐのその日、何かの作業をせねばならず夜通し起きていた時にそのメール返信はきた。


少し年上で同じ星座と血液型のその人は大学の同期で、どのような規模でどのような中身であれ集まりというものに滅多に顔を出さなかった。


何故かその人の世話をやくことがライフワークのひとつだった。といっても、私はだいたいいつも忙しく、向こうも学生時代ずっと「遭遇したらその日は大吉」などと揶揄されるほどレアキャラだったので数ヶ月に一度思い出したように生存報告させるために呼び出してお茶をするという活動に限られた。 


 その人を仮にA氏とすると、A氏は一見あまり人とコミュニケートすることを好まないようにみえるが話しかけたらスムーズに受け答えしてくれるし、個人的な話もしてくれるし、何か困ったことが起こった時に突然愚痴をこぼしてもたいがい快く対応してくれた。よくあるコミュ障とかでなく、ふつうの好青年なのに見かけは一切を遮断しているようなポーズをしている。それでいてそのポーズは簡単にオフにできるのだ。(この反転をどう分析したらいいのか彼が消えた今でも未だにわからない) 


私が梅田で飲んで電車で京都に帰っていた時、突然尿意が抑えきれなくなって途中の駅で降りたことがあった。トイレを済ませてもう一本後の電車に乗ろうとしたら、さっき降りたものが最終で、私は大阪と京都のど真ん中で宙ぶらりんになってしまった。ここがせめてどちらか寄りであればなんとかなるものを…となげきながら途方に暮れてしまった。脳のアーカイブを漁って、周辺に住んでいる連絡がとれそうなひとにかたっぱしからコンタクトしていたら、A氏が夜のさなかにやってきてくれるという。


全然土地勘のない街に放り出されてどうしようもないときにA氏が来てくれるからすごくありがたかったけどひとつ悩ましいことがあって、これは恥ずかしいけど事実だから書くけども、じつはほんとーにトイレを我慢できなくて少し濡らしてしまって、私はえいやっとコンビニに入って無印の下着を買い(未だにクローゼットに入っている)、たまたま持ち歩いていたバイトの制服のズボンを履いた。もともと履いていたものはレジ袋につっこんでおいた。


そうしてA氏がバイクで登場すると、私は何事もないかのように制服のズボンで彼の前に立って来てくれてありがとうと告げた。堂々とハッタリをかますのはいつの間にか身についた技術である。でも小心者なので一応先にバラしておこうと上記のことを告げると、彼は「なんだそういうこと、ふつうにいつもの服だと思ってた。言われないとわからないよ」と感心していた。それが思いやりから出た一言なのか実際だまされていた感想なのかは知らない。 


 始発の時間まで付き合うよと24h営業の喫茶店に連れて行ってくれて、毎度の如く近況報告をした。当時はたしか卒業間近かしてすぐかの時期だ。なんとA氏はコーヒー代まで払ってくれた。前回の生存確認でカフェに行った時、私が誕生日プレゼントとして彼の分をおごったおかえしらしい。すっぽり忘れていたし、おかえししてもらったらプレゼントにならんのではないかなーと考えたけど、うれしかったので素直に奢ってもらって改札で別れた。


それが最後に会った時だ。

いつも素早く返事をくれる人間がかなりの間をおいて、意味深なメッセージを残して連絡を絶った。

共通の友人に聞いたりたのんだりしてまわっても、誰も連絡が取れない。むしろ、私が一番連絡を取っていたという頼りにならない事実がわかっただけだった。


気が狂いそうになった。すぐ数日前にひとり知人を失った(ということを確認した)。そっちはなんとなく恐れていたことが現実となってしまったのでどうしようもなかった。後に残されたのは自分の気持ちをどう処理するか?という問題だけだった。最後にその子と会話した時は、なんでもないわらいばなしをしていて元気がないならこれやるよと綺麗な女性のヌード画像をあげて喜ばれたのだった。よかった、笑って別れたわ。

しかし今はちがう。まだあがく余地が残っている。あらゆる手段を、性急に使っていった。こういう時私は手を緩めない。正攻法を全力でやる。よく呆れられる性質である…が、それでも成果は得られなかった。 


有益な情報を得られるかもしれない最後のツナから何も手繰り寄せられなかったので、私は立ちあがった。コートを着て、ふらふらと部屋を出て行った。

 足のむくままに歩いていった。徹夜明けで頭にもやはかかっているし、とにかくダルい。それだけでなく急速に生命エネルギーが地面に吸い取られていくような気さえする。一旦休もうとガードレールに腰をかけて、気づいた。

ここがどこか。


気も狂わんばかりに無我夢中で歩いていたのに、無意識に助けを求めていたらしい。ここは友達のひとりが住んでいる近くだった。電話をかけた。通話先は、出なかった。少し戻って、コンビニで缶コーヒーをかって指先を温め、煙草に火をつけてもう一人の友に電話をかける。今度は出た。事情を話すと、すぐ来てくれるらしい。


私は気が狂わずに済んだ。電話に出なかった方は、のちに連絡が来た。この日には登場しないけど、もう一人頼りにしている友人がいて、この三人はこれまでも何度も窮地に陥るたびにカムバックするだけのMPを与えてくれた。どれだけめちゃくちゃな目に遭って心が折れかけても、それでも問題を解決して前に進むための活力と冷静さを回復するためにはこいつらに会わないといけない。

言語化しなくても脳は覚えていてそのうちの一人の家の近くまで足を運ぶように体に命令した。システム化できていてよかった。

それから数時間後、電話に出たほうを駅まで迎えに行って、自分の家でしこたま飲んだ。かなりみっともないけど、頼むからここだけはいなくならないでほしいと思った。その日だけじゃないけど、毎回打ちのめされて彼らに助けを求めるたびに、ここは取り替え不可能すぎると痛感する。



これまで書いたのは思い出話だけど、今だってそう。

それさえあればどんな悲惨さを前にしても正気でいられるものがあってよかったと心から思う。 


 想像する。もしも何か重大なものを背負い守っている立場にいたとして、私が守っているものを差し出さないと一番大事なものを壊すと選択をつきつけられたら、迷わず一番大事なものをとるだろう。人間には皆優先順位があって、私の最上位はMPを回復してくれる人たち。それを失うわけにはいかない。

正気でいさせてくれる人たちを失ったあとの世界に興味がない。興味がないというよりそこに存在することが難しい。仮に失ったとしても表面的には何も変わらないかもしれない。けど次に心が折れたらおしまいだ。カムバックする余力がない。だから、優先順位の最上位を無慈悲に選んでその他すべてを崩壊させたとしても、しょーがないじゃんと言い放てると思う。


それは愛(この場合は友情としての)だけれども、愛を向けられている相手の思惑を必要としない愛だから一方的だと思う。友人を、概念にしている。ともかく、それがあれば生き続けることが可能になるとゆーものを見つけられてよかった。この世には自分を救うための信仰を見つけられずにどーしよーもなく宙ぶらりんな人々がたくさんいるのに、私は既に常に生を選択できるシステムを所持している。しかも奇跡的に、友達というバランスのよい形で。


 私が失ってしまった彼ら(A氏以外にも2人ほど失踪した友人がいるし、また、苦しんでいるのをわかっていながら何もしてあげられなかった人もいる)はどうだろうか? A氏は、私が数日遅れのバースデーとしてカフェに連れて行ったことを生き続ける燃料に出来ただろうか?そーいえば、昔カロリーメイトばっか食べてないでまともなもの食えよと弁当を余分に作ったらありがたく頂戴すると大げさに感謝されたけど、それは彼にとって苦しみながらもカムバックを選択するための一押しになっただろうか。

エロ画像を送ったら喜んでいた知人は、きっとこのことは一生覚えておくと言っていたのにその一生を早くも閉じてしまった。ねがわくば、コーヒーも弁当も全部生きるためのエネルギーに、変換して消費される記憶であってほしい。 

でも、きっと、だめだったんだろうな、という諦念が心の底で支配している。


 私には何か自分の中の大事なものが壊れそうになった時のストッパーがいるけれど私自身は誰のストッパーにもなれなかった。システムとして君臨することが出来なかった。 私は定期的にこうやって、手持ちのカードから常に最善を選んで戦う気力があることとその気力を支えている信仰、システムが実在していることを感謝しながら、失踪した人びとにどうか無事で帰ってきてほしいとモノローグで祈るだけの無力さにうちのめされる。

可能な限りセーフティネットになりたい。

しょーはしパンダからのお題

今回は「言葉」についてです。

割とざっくりしたテーマなのでどんな切り口でやるか迷いましたが、自分が数年かかっても分析できなかった事象を、これこーゆーことなんじゃないのと言ってくれるひとがいるかもしれないという期待を込めて事例をそのまま書いてみようと思います。


それはある知人のことです。知り合って割と長く、幾度となくサシであったこともあるし喋ったこともあるけれども全く理解できない人です。

だからといってきらいなわけではなく好きすぎるくらいですが、その人と言葉を交わして手応えがあったという感覚を感じたことがありません。


ふつう、人と話しているとたとえ本音のセリフでなくても(良くも悪くも)琴線に触れるフレーズがあるものではないでしょうか。


1.シリアスな会話で熱のあるやりとりをする

2.片方は自説をといていてもう片方はふんふん聞いている

3.他愛ない会話やふと漏らしたひとことがたまたまひっかかる

4.何かしらの相談


だいたいこういったパターンがあるかと思いますがその知人と話していてパターンに当てはまった記憶が全くありません。

あらためて思い返すと当たり障りない世間話しかしていない。


共通の友人に聞いてみましたが友人に対してもそんな感じなのでだいたい誰に対してもそうなのだと予想されます。

これまで会った中でこのよーな在り方をする人はその人しかおらず、当初は面食らって自分の言葉が伝わっていないからいつものようなコミュニケーションが出来ないのだと感じ、自分はある言葉を投げることを試しました。


それが何なのかはここでは書きませんが、その言葉を投げかけられた以上、答えずにはいられないものです。無視や沈黙すら回答になる。


しかし、試みは失敗に終わりました。文字通りその言葉はその人を素通りしてしまったのです。

他の人なら必ず響くであろうはずの言葉にすら、良い反応も悪い反応もしめされず、言葉から意味や文脈は消滅してしまいました


推測ですがその人と、自分や他の人とは全く違う言語体系を成しています。その人の母語は日本語です。しかし、母語が同じでもその人の身体に織り成された”言葉をどう形成し、どう使うか”という文化は全然違います。


多分、あの時投げた言葉を意味のあるものとして響かせるにはきっとその人の言語コードに合わせて使わなければならなかったのですが、何年経ってもこの言葉はこういう時にこうやって放てば届く、といった分析がひとつも出来ていません。世間話しかしていないのだから当たり前といえば当たり前です。


その人からは失言を聞いたことがありません。言葉によって傷つけられたこともないけど、何か大事なものを交わせたことも多分ない(相手はあるかもしれないけどそれを認識できない)。

何年もそんな感じでうまくやってるならこれはこれで健全な付き合いなのか?


全ては出来るか出来ないかも分からぬ言葉の分析しだい。