焦げた後に湿った生活

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「ローン・レンジャー」感想 あるいはポスト・コロニアルについて(1)

先日「ローン・レンジャー」を観に行った。正直いって全く期待していなかった。

友人が誘ってくれなかったら一生観ていなかったおそれがある。

 

こんな超名作を!

パシリムも風立ちぬも抜いて今期最高、どころか今まで観た映画の中で一番だった。

いまだに「ウィリアム・テル序曲」が流れると泣いてしまいそうになる。

最初に一言、この作品は超ヤバイ:
アメリカ・白人そのものであり、彼らにむけたファンタジーを作り、世界に白人性を輸血し続けてきたディズニー社が、2013年になって先住民およびか つてコロニーにおいて搾取されてきた者、そしてその子孫にむけたファンタジー作品をはじめて作ったという極めてポストコロニアルな映画

なのだから。

これは大問題である。ディズニーといえばポカホンタス問題があった。(wiki参照)

長らくポカホンタス、そしてローンレンジャーのトントの二人の名前は、白人に媚びるネイティブとしてネイティブの間ではバカにされ続けてきた。

でも、今回の「ローン・レンジャー」は違う。

ネイティブアメリカンの血を引くジョニーデップが、完全に先住民の子孫のための勧善懲悪ファンタジーを作ったのだ。しかもそれをディズニーで!

これは、ジョニーデップが自分のために作った物語だ。

 

 

「パイレーツオブカリビアン」に夢中だったのはローティーンの頃だし、CMを目にしてはいたが食指を動かされてはいなかった。

 

だが、ディズニー映画やジョニデ出演作品への偏見でかためられたつまらない意識は開始何分だったかしらんが中盤から音をたてて崩壊していった。

実際ずっとすすり泣きしてたから音を立ててって誇大表現じゃないと思う。

 

 

ローン・レンジャー」は西部開拓時代を舞台にした復讐の物語である。あったはずだ。

しかし、いきなり場面は西部開拓時代よりもっと後の時代である。資料館のような場所にマスクで仮装した子どもが入っていき、そこに展示されている老ネイティブアメリカンの蝋人形?と出くわす。

なぜか等身大ネイティブ人形はしゃべりだし、しゃべるどころか動きだし、子どもに話しかけるがどうもかつての友人と人違いをしているようだ。

ネイティブは子どもに友人と冒険した話を語り出す。その語りはところどころ穴があったり時間の順序がおかしかったりする。子どもは時々補足をねだる。記憶は断絶しているのだ、子どもが話しかけるまで。

ややあってネイティブの老人・トントの記憶は物語のスタート地点に戻る。

 

列車の中で二人の男が縄につながれている。一人は若かりしトント、もう一人はその敵でありトントに悪霊と称されるキャヴェンディッシュである。

列車の中には後にトントのキモサベ(友)になる若き検事ジョン・リードがおり、六法全書のような書物をこれが僕の聖書です、などと言っている。

そのうち列車はキャヴェンディッシュの一味に襲撃され、トントは復讐を果たすチャンスをジョンに邪魔され逃した上に、助けてあげたはずのジョンによって法律をタテに逮捕されてしまう。

ジョンは自宅にトントをぶちこみ、兄家族に会いに行く。

兄は腕のきく保安官で、彼にコンプレックスを持っている弟ジョンは、故郷である西部を離れて都会で勉強していたがこのたび戻ってきたのだ。

が、悪党を武力で退治しようとする兄と法によって裁こうとする弟の意見は合わない。失望のうちに保安官一行に同行するが、返り討ちにあって全滅してしまう。

 

ジョン宅を抜け出したトントが復讐を完遂するために、勇敢な戦士である兄を生き返らせようと聖なる力を持ったスピリットホース、白馬のシルバーを呼ぶ。

なのにシルバーはトントの思惑そっちのけでジョンを生き返らせてしまう。

ここは結構な笑いどころで、トントはシルバーに向かって「長旅で疲れているんだな、かわいそうに」と言って観客の笑いをとるが、シルバーが「劣った弟」であるはずのジョンを生き返らせるのは必然である。

古き良き時代のアメリカを象徴する兄ではなく、法によって治められる新しい社会を象徴する弟と先住民のトントとでコンビを組めとシルバーは示唆しているのだ。(馬だからしゃべらないけど)

アーミー・ハマーのインタビューでも「ジョンはトントから多くを学び、トントもまたジョンから学ぶ」(パンフレットより)と語られるが、そのようすはまさに先住民と新しいアメリカ社会がお互いを少しずつ知りながら共生をさぐっていく過程に他ならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「風立ちぬ」感想(と「撃墜魔女ヒミカ」)

原作の感じを想定していたので肩すかしをくらった。

観てすぐの感想は、煮え切らないとしかいいようがなかった。よく出来た萌えポイントは沢山あったけど萌えの元祖みたいな監督だしそれは当然かもしれない。

分かりやすく盛り上げる場面はないし、切ないサナトリウム恋愛モノとか宣伝で強調されている「生きねば」のような強いメッセージ性とかでくくれるような映画ではなかったので、どういう風にとらえていいのか判断に困った。

劇中唯一涙をこらえたシーンは菜穂子が山に帰るところだけだ。

ただ、全編にわたって言い表しようのないさわやかさと呼べるような雰囲気が貫かれている。

 

そのさわやかさの正体は:キャラクターである。

二郎にはヒーローの常である葛藤がまるでない。

自分の周りの、天才型の人間を突き詰めたようなキャラが二郎だと思った。←芸術肌の変わった人って知人友人に一人はいるでしょ?

天才はその才能の代わりに何かを喪失しているのが定番だが、二郎にとって(私の知っている二郎みたいなあの子にとっても)それは社会性だろう。だから世渡り上手っぽい本庄君とは良いコンビといえる。

そして、二郎の周りには彼の障害となる人物はいない。母親は彼の夢をやさしく聞き、妹はなんだかんだいってお兄ちゃん大好きで彼の行動を受け止め世話を焼き続けるし、菜穂子は言わずもがな、最初は意地悪かと思った上司も実はすごくいい人だったパターンである。父親は全くといっていいほど描かれていない。天才には既存のロールモデルなど必要ないからだ。承認しサポートする人間だけが必要とされる。

劇中彼の障害になったのは特高と軍部のおえらいさんくらいだが、ノイズとして処理されている。分かりやすい悪役の役割を与えられたキャラが排除されているので、冒頭で言ったように盛り上がりがないと感じたのだろう。

二郎の作ったゼロ戦で死んでいった者たちに対しても、じつにアッサリとコメントしただけで済ませてしまっている。

 

このように、二郎には葛藤する暗さの要素が全くない。ズレてはいるけれども。ゆえにさわやかな感じを見る者に与える。

しかし、さわやかであること=負の側面を発生させない ことではない。

 

筆頭は菜穂子である。彼女は本来なら少しでも空気のよい場所で療養していなければならないが、愛する夫と一緒にいたいがために自分の身を文字通り削り続ける。

だが、すんなりと二人は彼らの状況を受け入れた(ように見える)。風立ちぬでは殆ど結核の業病っぷりとそれに由来する葛藤が描かれない。結核である必然性がない。ということは、ストーリー中で菜穂子は必ずしも結核でなくてはならないということはなかったのだ。他の病名をいくらでも代入できる。

彼女の役割は、か弱い病者ではなく、ただ単に「二郎を好きで好きでたまらなかった人」なのである。たまたま病気だったので命に関わる困難を体験してしまったが、おそらく病気じゃなかったとしても世間ズレしている二郎と共に生きている限りミニサイズ版の似たような苦労はつきなかっただろう。

つけ加えておくが、彼女の特異性は二郎の犠牲者にとどまらないことだ。美しいものにしか興味のない二郎が自分の美貌だけを愛していることを知っていたから山へと退場していったかわいそうな子ではない。

二郎が菜穂子をどうこう思っている以上に、菜穂子は恋している夫に生きる力が衰えていく姿を見せたくなかった。好きな人に自分の弱いところを見せたくないという言ってしまえばかっこつけの心理は、菜穂子自身のキャラクターにより見事に洗練されて視聴者の心を打つ。それをいいことに二郎は…という見方もできるけれど、やっぱり私は菜穂子の気持ちに共感するほうが強く出る。

新婚初夜のあのシーンも男女問わずグッときた人は多いと思う。菜穂子は風立ちぬのヒロインであり、ハッキリした自我と堂々としたふるまいをもって人々の心をつかむヒーローでもある。実は菜穂子の方が二郎よりも正統派主人公の役割に近いと思う。これ以上戦うと命を落としてしまうのに、それでも戦いにおもむくウルトラセブンみたいな。

 

で、そのような彼女の最後の登場シーン(といえるのか?)で、二郎は謝罪でなく「ありがとう」とズレ丸出しのセリフを言うわけだがそれが二郎が天才たる証拠である。

そこで大方の期待通り謝罪するならば凡人だ。「(僕と付き合うのは大変だったでしょう、)ありがとう」と言ってこそ、承認されて当然という天才なのだ。

 

話を二郎の業に戻す。この映画の感想をぐぐると、未来派にあてはめて批評している人が多い。その辺は北守さんや友達のマル~~がやってたから省く。

二郎は戦争に加担したことについてどう思っているのだろうか?

ここにこの映画を軍国賛美とも反戦映画とも定義しがたい、どっちともとれないような感触がある。

 

映画評論家の町山は、この映画を映画監督たち(もちろん宮崎駿)の自己投影だと分析した。(http://matome.naver.jp/odai/2137713216734546901)

庵野監督がまさかの主役声優になってしまうのも、(悪ノリじゃなくて)必然だったわけだ。プロフェッショナルでいかなる声も演じ切れるぜ、という人でなくどんな環境だろうが好きなことに没頭してしまう変人にやらせたかったのだ。

庵野監督の奥さんである安野モヨコ風立ちぬを観て泣いたらしいが、二郎みたいな人と結婚すると大変なんだから本当に…ということらしい(二郎タイプの人に惚れてしまった友人の苦労も思い出される…)。

また、少し前のNHK宮崎駿がもう小さい子や少年に向けてのお話を作り終えてしまったと話していた。ならば残るは自分語りである。自らの葛藤を風立ちぬで描いたといっていいだろう。

まとめると二郎=宮崎駿、あるいは無数のクリエイターは、内心反戦を願っていようがなんだろうが戦闘機やロボットに対する抗えない快感があり、それをどうすることもできないということである。

(町山はそれを男の性としているが女だってそうだぞ、バッカ。オタク気質なら誰だってそうだろう。パシリム観たとき怪獣博士に一番共感したもの。)

「生きねば」というキャッチコピーの重さと本編の内容とが全然合わないと思ったけど、もしかして自己矛盾を抱えていてもクリエイターとして生きねばということなのだろうか。

 

ちなみに二郎の性別を女に変えて、戦闘機を作る天才から戦闘機で戦う天才に変えると電撃文庫「撃墜魔女ヒミカ」のヒミカになる。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%83%E5%A2%9C%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%83%92%E3%83%9F%E3%82%AB)

全然売れなかったこのライトノベル、結構読み応えあって面白いので是非読んでほしい。

地上の俗事から離れ騎士道精神を持つ者同士で戦うパイロット達の中でも飛びぬけた才能と戦績を持つヒミカ・シンドウ帝国空軍中尉が、記者の質問責めにあうシーンがある。

「中尉はなんのために戦っているんです?」

「さあ」

「祖國のためですか?」

「私の祖國はむなくその悪い侵略國家よ」

「じゃあ、いったい?」

  …

「とりあえず、私は空を飛べればいいの」

 

ヒミカでは風立ちぬよりも強めに舞台となる帝国(いうまでもなく大日本帝国がモデルである)の腐敗具合について言及しているし、ヒミカが無口(これも二郎と一緒)な分、周りにいる人物が国に葛藤する思いをオモテに出している。

結局そのアンビバレンツも戦闘機に乗って闘うこと-相互にフェアな殺しあい-が好きだという欲望にのみこまれているし、腐敗した国への苛立ちから逃れるように一層ヒミカたちは空にあこがれて空を駆けていくのだが。

 

しょうがない。わたしだって現実の殺人はこの世からなくなればいいと願っているけどアサシンになりたいし変身ヒーローになって敵をボコボコにする夢だって捨ててない。ヤクザとは関わりたくないが任侠映画もマフィア映画も面白いと思ってしまう。誰にだって抗えない快感は存在する。

 

あと最後の最後で「ひこうき雲」流すのずるい。いや主題歌だから当たり前なんだけど。泣くでしょ。抗えない。ずるい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワリカン

男に奢ってもらって当然!って態度の女むかつく、みたいな話題たびたび出るけどそんな女遭遇したことないから大して同情できない。

最初から奢るんでって言われる以外は出している。

喫茶店とか居酒屋とかでちょっと多く出してくれる程度なら気持ちよくありがとーって言って帰れるけど、全おごりだと気を遣って疲れる。

大学入学当初、デートで女に支払いさせるか否かみたいな議題があって、フェミニストならその辺きっちりスジとおせって元ヒッピーの英語担任に言われたのをよく覚えているイイコチャンタイプのシャアちゃんは基本半々で収入・状況に応じてバランス考えたらいいだけの話だと思う。

(水商売は別。あれは金銭と時間および尊厳、技術をトレードする世界なのだから)

 

昔男女平等テロに遭った。

たびたびtwitterでネタにしている阿部薫系男子ことメンヘラDVクソ野郎の元カレと遠距離恋愛してた時の話だけど、当時大学院浪人してて、奨学金もないしカツカツの生活をしていた。

週5でバイトしていたが、それでなんとか一ヶ月生活して多少貯金に回せる程度の収入で、バスで六時間かかる社会人の彼氏の家に行く出費が結構キツかった。

交通費が一万円強ほどで、それに向こうにいる間の食事代がプラスされるのだけど全くいいように都合してもらったことがない。

最初にまとめて自分で支払ってあとから半額を現金で貰うシステムだった。

「男女平等なんだから支払いもワリカンでしょ?」とは元カレの言だがなぜか私の頭には疑問符がうかんでいた。字面だけなら全く変じゃないけど、何だか納得いかなかった。

別れた後、金欠だから次に会うときに一緒に支払うと約束した分をもらっていないことに気がついたが、手切れ金だと思って流した。

後日その話を友人たちにすると、皆口をそろえて「どうして社会人のくせに学生にそんなに払わせるの?ありえない!しかもシャアに自分の家の方に来させてるのに」と…

ああ~疑問符の正体はこれだったんだな~~~と、(時すでに遅しだけど)ぼんやり思った。

収入が遥かに違う場合、相互のとりきめがどちらかにとって著しく負担である場合はハンディをつけるのは気遣いの問題で、そういうことに対するデリカシーがあまりにもないのと、いいようにフェミニストであることを利用された感があるのが濁った気分の発生源だった。

 

貧乏だからというのを免罪符にヒトに毎回たかるのは嫌だけど、これは向こうがあんまりだよな~。

「アラサー女性漫画家がギャグにしてそう」と言われたので誰かこの話ギャグ漫画にしませんか^^^^^^^^^^^

 

 

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このブログは当初、「遊び」についての自分の考えを書こうと思い立ち上げたのだがパブリックな場でやるのが難しいから頓挫してしまった。

まあ、その時々で考えたある種の理論とか主張とかはエッセイとして書くかもしれないけど。

そもそも「遊び」の話をしようと思ったのは知人に、あるエピソードをまじえて男の欲望は身勝手というが女の欲望もだいたい身勝手であるという旨を語ると、

「普段お前はフェミニズムの観点から差別構造について発言しているが、それではなかなか人にキャッチされにくい。しかし今みたいな話を書けばフェミニズムとネタの融合になっておもしろいだろう」と知人に言われたからその気になったというわけである。

これだけでは続かないだろうから、twitterでは連投するか端折って投稿しなければいけないくらいの長さの文章をコンスタントに書く、というスタンスでエッセイなり批評なりやっていきたいと思う所存。