焦げた後に湿った生活

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ディスコ・イズ・デッド

この間気になるツイートをみた。

正直にいうと誰がツイートしたものか覚えていないし、さっきこの記事を書くにあたってそのツイートをRTしている筈の某ラッパーの発言をさかのぼったけど、該当ツイは見当たらなかった。

なので正確に引用できないことを心苦しく思うが、その内容はおおむねこういうものだ。

「(不特定多数のクラバー女子を指し)お前たちのやっていること、オシャレ、アップした写真、などはすべて無意味」

といったようなことだった。

 

さて、これはどういうことだ?

クラバー女子の対になるべき存在はクラバー男子である。

で、これを書いていた(はずの)人もクラブへ繰り出し踊ったりフロアを沸かしていたりしているはずの男性。

クラバー女子のやっていることが無意味ならば、相対的にクラブに存在する彼女たち以外のもの=クラバー男子のやっていることは有意義として意味づけられる。

 

…などと考えていたところ、追い討ちで今度は知人DJと客が「ブスはニューエラをかぶるな」と発言していた。「だったら童貞とコミュ障はクラブにくんなよ」くらい言いそうになってしまうがそれは口に出したくない。売り言葉に買い言葉でつい反撃してしまいそうになったがそんなこと考えてない。クラブは誰がどんな風に楽しんでもいい自由な場所なのだ。

しかし、これは糾弾したい。頭で思っているのとオモテに出すのでは責任がまるで違う。理想をいえば人をきずつけるような考えが浮かばないのが一番だが、たとえ思っていても倫理観と照し合わせてみて不適当ならば口に出さないのがニンゲンのモラルである。

 カンタンに女の子たちをおとしめる言説を誰でも見れる/皆がいるところにポストできる風潮って一体何なんだろう?

 

数年前、毎月クラブで遊んでいた。

家族仲は破滅、学校の勉強は大変、オマケに生活費を自分で稼がねばならない境遇だったわたしにとって唯一の息抜きだった。月に数えるほどしかないオフの日の一つを必ずクラブにあてていた。

バンドもしていて楽しかったが、遊び場であり戦場であるライブハウスでは女子であることに起因するゆるせない案件があったため(mixiで書いたがそのうち転載する)、次第に純粋に客として遊ぶ場所はクラブへと移行していった。

そこでは変なプライドもなく皆が享楽的にお酒を飲んでタバコを吸い踊っていて、踊るのに疲れたらいつでも休んでいいし、誰としゃべってもいいしナンパをしてもされてもオーケー、要するに人に迷惑をかけなければ何をしたっていい本当に自由でわたしにとっては神聖な空間だった。

好きなジャンルの曲がかかるとブースの前に行き、お酒片手にいつまでも踊り続けた。多少の疲労では止まらない。疲労の限界点を越えて踊り続けるのも楽しい。いつだったかあまりにも生活に疲れていた時期にクラブで踊っていて、「まるで自分は音楽が鳴っている間だけ動くゾンビで、DJは現代のシャーマンみたい」と感じたことがある。

それくらいソトの世界のあれこれを忘れさせてくれるものだった。過去、わたしにとって生き延びるためになくてはならないものだった。きっと他の客だって多かれ少なかれそういう要素を求めて集っていただろう。退屈で過酷な日常を生き抜くために、あの空間は必要だったのだ。

 

わたしは文字通り全身全霊をかけて遊んでいた、ダンスフロアにすべてを捧げていた。最前列で踊ること、気軽なあいさつ、カクテルなどは意味がなくて意味があった。

 

それがなんだ。今やそういったことや、それらを記録にのこしておくことがバカにされているのだ。同じフロアにいる男たちによって。こんな矛盾した、かつ理不尽なことがあるだろうか。

「ただ、楽しむこと」フロアの原理はこれに尽きるといっていい。時に忘我の境地に至るまで楽しむこと、しかし気軽さを失わないこと、この論理を愛していた。

だけど今は、踊らせる側の登場人物も、踊る側の登場人物も、同じ踊る人間を貶している。徹底して重さのない、あぶくのような形のない夜(だからこそ、パッケージングして脳に残すのだ)を愛する人間を。貶す者にとってソレは仲間じゃない。女だから。

 

フロアはジャンル問わずサブカル男子の馴れ合いと化した。わたしの遊び場だってそうだ。イベントの細分化や身内化が大きく関わっているのかどうかは分からない。だって某有名ラッパーが客の女の子たちの遊び全部を無意味と評価を下したくらいだから。

 

原始、フロアは太陽だった。

あからさまな悪事は排除され、あとは自己の倫理で律された。だれとでもなかよくできたしだれともなかよくしないこともできた。

 

だからちゃちな、非常にこどもっぽいマッチョイズムが浸透したならもう終わり。軽さの論理にマッチョの重みを持ち込んだ時点で神は死んだし、その重みが理論化されるほどの強さを持っていないために余計厄介である。あくまで無自覚な「気軽な」会話として男同士で語られるのだ、某ラッパーのRTのように。

一介の客もダンスフロアの論理を最も体現するはずの演者もそういう表明をしたのだ。わたしはあきらめた。

生き延びるための場所がなくなったら、また次を探そう。同じような遊び方じゃないかもしれないけど、しょうがない。だって、何が起こるかわからんファンタジー性はもうクラブにはないのだ。

いや、違う。ファンタジー性がなくなったんじゃない。フロアでは今でも何でも起こり得るはずだけど、何が起こっても正しさや価値はホモソーシャルな目線によって評価されてしまう、ということだ。

 

女の子たちのやってることが「すべて無意味」ならばあなたがたはきっと<意味のある>行いをしているんだろう。フロアの論理を愛していたわたしからすれば馬鹿げたことだ。せいぜい<意味のある>もの同士でなかよくしていてくれ。

夜におしゃれすること、出かけること、集まること、踊ること、話すこと、踊り疲れること、刻みつけること、忘れること、遊びの世界が汚されたからさよーならしよう。

新しい遊び場を探し当ててサバイブする。息苦しい場所から脱出して冒険し新天地に飛び込むのは慣れているから大丈夫だ。”過去はどんなに暗くとも夢は夜ひらく”っていうしね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子鉄ちゃんからのお題

【自分の友達の中で「この子が、私の知っている人の中で一番、世間一般の、平均的な、20代前半の女性だなー」と思う子を挙げて、どういう所をしてそう思うのか。そういう友達がいない場合は、母性本能というコトバを聞いて真っ先に抱く感情について。】

 

大学のクラスメイトはわりかし所謂リア充多めだけど広く浅くの付き合いだったわたしが分析するのは筋違いだと思う。頻繁に遊ぶ友達は皆どこかしらやばポヨ。

アパレル関係に就職した友達が働きはじめてから世間一般の社会人(大卒)イメージに近くなったかな?と思ったけどあいつ最近「ポヨォ」に感染して自分でも使いまくってるらしいからやっぱダメポヨォ♥♥

 

なので母性本能について書くべきなんだけど頼むから言葉狩りしてほしいとしか言えないニャン♥♥

この単語を聞くたびに心の中の釘バットがブンブンうなっているぜ、次の犠牲者になりたいヤツはダレだ

 

 

 

 

時折人から「母性がある」といわれることがあるけど母性に惹かれて集う男は潜在的マザコンだろうから全然うれしくないですね

 

ちなみにこの記事を書いている途中で開けてはいけない記憶の扉をひらいてしまったことをお知らせします

 

 

 

 

 

 

結婚とかその他の話

保守コンとか婚姻制度は差別かとかみたいな結婚に関する話題がTLで出ている

自分はキャリアを積むのに手一杯、つまり自分のことだけで余裕がないのでそこに結婚組み込むビジョンがないしさしたる欲望もないが、もしこれから誰かと生活を共に形成するならばうちのボスを手本にしたいと思っている、というかそうでもなければ愛の生活なんてしたくない

 

ボスはanarchyだから事実婚のまま子どもを作り入学時だけいろいろ面倒だから入籍→離婚を繰り返しているらしい

結婚制度にとらわれないのも良いけれどそれに増してそういった価値観を共有し実行してくれるパートナーがいるのがうらやましい

ポリティカルな活動していく中で出会ったのかな?そうでなければものすごく自分を盲信的に好きで崇拝しているようなひとじゃないとなかなか"王道"から逸脱した選択しは受け入れてくれないよね、

 

私は”在日である自分”を重視しているから既成の結婚制度には色々思うところがあって結婚面倒くさいなと思う、

相手がよくても相手の家族がガイジンに偏見もってるとかよくある話だし一回経験したし

他にも例えば子どもができたら子どもの国籍どうする?とか教育は?とか考えたらキリがない

民族学校に入れるという選択肢は自分が行ったことがないから想像がつかないけど何らかの形でルーツとなる文化くらい知っておいてほしいと思うし

在日形成史だって教養として、そして玉石混交の情報がネットや噂で飛び交う今の時代において身を守る術として知っておいてほしいが、一方で自分ほどの苦労をさせたくない=この国で外国人・移民の子孫としての人生を歩ませないほうがいいんじゃないかとも思う

…というようなことを考えると頭が痛くなるのでめんどくせえし結婚いらねえわという結論に至る

あ、国籍に関する云々のぞいても夫婦のどちらかが名字変えなきゃいけないのいやだなあ

 

こういうことばかり考えてしまうので、先日既婚の幼馴染に聞いてみた

 

「ねーえ、私に結婚に対してメリットというか夢が持てるようなこと言って?」

「やっぱり二馬力で働いてるから生活が安定するよ!」

 (そういうことを期待してたんじゃないけどまあいいや、すばらしい回答だ)

 

 

 

宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」を読むと、既成のカップル・家族像にとらわれないまったりしたつながりを彼は評価している

友人にルームシェアの話を持ちかけられたのがきっかけなんだけど、最近そういったつながりを基盤にした、それぞれにちょっとした欠落とかやっこい状況とか抱えてる人間が共同する生活、のことを想像している

面白くて好きな友人たちと共同生活を営みたいが、ウサギ小屋みたいな部屋はいやでそれなりに文化的な水準の暮らしと創作活動をする時間も持ちたい、でも皆バイトしか収入を得る手段がない、といった状況を想像すると、一人が風俗やって主たる収入を稼ぎ生活を保持するという手段が浮かんだ

 

ヒモをもったわけでなく、友達と生活したいからと主体的に風俗で働いてルームメイト養う女の子(男の子でもいいけど)の話おもしろそう、書きたい

 

 

「ローン・レンジャー」感想 あるいはポスト・コロニアルについて(3)

ジョンとトントは故郷に別れを告げてどこかへ去っていく。そこで記憶は終わる。

舞台が1930年代へと戻り、子どもとトントはお別れの時間になる。

なんと、それまでネイティブアメリカンのステレオタイプなイメージそのものの格好をしていたトントは、ハットにスーツを着て去っていくのだ。

いかにもアメリカ白人っぽい格好をしてふらつきながら歩き出したよぼよぼのトントはどこへ向かったのか?

それはもはや家族も家もなくなった故郷テキサス。スクリーンが真っ暗になるまで、延々と昔の西部の自然のなかを歩き続けるトントだけが映し出される。

故郷を失ったloneなトントは、故郷と呼ぶべき場所がこの世のどこにも存在しないから、アメリカ社会で生きることを選択しただろう。

それでも、先住民といわれる人々やその子孫がいくらアメリカに同化しようと、消えないものが必ずある。亡霊と呼ばれ文字通り亡き者にされたとしても、心の中だけは殺せない。その心の中の風景があのエンドロールだ。

昔日本でも植民地に対する同化政策というものがあった。でも、完全に成功したわけではない。植民地の文化は、さまざまなかたちで現代にも残っている。(私の祖母は同化政策がきつい時代に生きてたはずなのに、死ぬまでずっとコーン茶を飲んでいた)

パンフレットのジョニーデップインタビューでも、現代においてネイティブアメリカンがルーツを保つことについてしっかり語られているので、興味を持った人は読んでほしい。

 

トントに帰るところはないから静かにアメリカの社会に市民として溶け込むだろう、トントの歴史は博物館の見世物としてしか見られないけど、それでもトントの中の記憶の風景は(断絶しても)完全に消えさることはない。

 

勧善懲悪のファンタジーはこんな風に締めくくられる。やりきれない話だ。復讐が終わってもトントに残されたのは複雑な状況でしかない。

監督のゴア・ヴァービンスキーは、「この映画には喪失感がある。トントの感じている喪失感がね。」と述べているが、それはそのまま現代におけるトントのような人々の喪失感につながる。それをどうして克服していくかなどは「ローン・レンジャー」では語られない。

だが、これがポストコロニアルだ。わかりやすく全員が納得できる解決策が存在しない状況そのものがポストコロニアル的なのである。

ローン・レンジャー」はよくできたエンタメ、ファンタジーでありながら、一方で現代のポストコロニアルの重大な問題を描写した作品なのだ。

 

ここからは私の物語である。

 

映画が終わり涙をふきながらスクリーンを出ると、目の前に若いカップルがいて映画の感想を話していた。

「なんか、シュールだったね。最後のアクションはすごかったけど。」

「意味がわかんなかった。」

 

そりゃあまあ、あなたたちには分からなくてもしょうがないわ、と思った。

これは未だポストコロニアルな状況にいる者にひびく物語なのだから。

 

トントも私も、いつまでも「傷ついた少年」のままではいられない。「既に亡霊」かもしれない記憶、喪失感と現状のどうにもならなさを抱えて、それでも歩いていくしかない。

具体的なロールモデルがなくとも、ポストコロニアルに生きる人間は、今いる社会の中で自力で人生を模索していくしかないんだろう。

たまには西部劇でも観ながらね。

 

 

 

 

ところで。

「可愛いのが好きなの~」のあの人はなんだったんでしょう。

基本キャラの役割に無駄がないと思うんだけど、あれだけは何の役回りなのかよくわかんなかった。面白かったけど。

キャヴェンディッシュに恋している、という解釈見てそれっぽいと思ったけど、だからといってトントやジョンに直接影響があるわけでもないのでどういう意図なのかなーと。

 

 

 

「ローン・レンジャー」感想 あるいはポスト・コロニアルについて(2)

トントとジョンはコンビを結成するも衝突が絶えない。

兄嫁に対する横恋慕を指摘されたジョンは、トントにお前はしょせん先住民だから俺の気持ちなんてわかりっこないという旨の八つ当たりをして険悪なムードになる。

白人と対決し滅びゆく運命にある先住民の集落では、トントが故郷を失ったトラウマがあることが明かされ、トントはトラウマゆえに悪霊の幻想に囚われた「傷ついた少年」なんだとジョンに言われてしまう。

 

-幼トントは、行き倒れの白人の大人二人を助けて自分の土地に連れて行ってやるが、そこが銀を量産できると知るやいなや、白人はトントを甘い文句で言いくるめて安物の時計と引き換えに彼の故郷を奪う。

 

何の比喩も説明もいらない。これが植民地だ。搾取の構造。

 

いったんはトントから離れ白人社会に戻ったジョンだが、兄が殺された事件や白人と先住民との争いがとある人物によって仕組まれていたことを知る。悪びれもせずに発展には犠牲がつきものなのだと言うその人物を前にして、はじめてジョンは法だけが正しいのではないと実感する。

法を作ったのが支配者である限り、法で救えないものは存在するのだ。

 

物語は佳境に突入し、やや長ったらしかった前半より、中盤からラストは怒涛の展開になる。

先住民と白人の戦争は避けることができずに莫大な死者の山を作る。マシンガンの前に次々と倒れる先住民たち。

 

かつて先住民の土地だった鉱山。尊厳などまるでないかのように扱われる華僑の労働者。

そこにふらりと現れるトント。トントに向かって「お前たちはもう亡霊なんだよ」と吐き捨てる開拓者の一人。

 

亡霊とはなんと言い得て妙な表現なんだろう。トントがネイティブアメリカンであり続けるためのモノは故郷にしろ家族にしろ失われており、老いて時間が経つに つれ断絶していく記憶のみが彼に残されている。一方で、亡霊という語には支配者自身の恐怖が無意識に入り込んでいる。いくら殺しても立ち現れる存在。亡霊 とは浄化しなければいけないもの…という話はおいておくとして、最後の記憶は圧倒的なスケールで展開される大陸鉄道でのガンアクションである。

 

ジョン、トントは開通式に殴り込みをかけ、鉄道上で黒幕との壮絶な戦いが始まる。

ド派手に銃がバンバンぶっぱなされくるくると立ち位置が入れ替わる。

 

先住民の法則・物々交換によって、トントがずっと持っていた復讐のための銀の銃弾は、最終的にジョンのもとにわたってトントの危機を助ける。

 

最初、ネイティブアメリカンであるトントがなぜ敵の武器である銃での復讐にこだわっていたのか分からなった。

彼は口にこそしないがその理由を文字にするとこうだろう、

「テメーの作った近代化と共に滅びろ」

銀の銃弾はトントの敵の武器をはじき、トントは忌まわしい思い出の時計を投げつけ、黒幕は銀を積んだ列車とともに沈む。近代化の象徴たる銃と搾取そのものであった銀をもって復讐は完了する。

 

 

ド派手なアクションを観ながら、たとえば泰緬鉄道であったりその他多くの植民地のことがずっと頭をよぎっていた。

また、こう願っていた。

「頼むからもっと派手にやってくれ、これをファンタジーだと痛感させるために」

近代化と身勝手な開拓のツケを支配者に払わせた痛快な復讐劇なんて、しょせんフィクションだ。本当は復讐なんてできなかったことのほうが圧倒的に多い。

たとえ復讐に成功したとして故郷も家族も戻ってこない場合もあるし、鉄道を一度ジャックしたところでそのプロジェクトすべてを破壊したことにはならない。先住民をブチ殺して行った開発はきっとその後も続けられただろう。

だけどもこの映画は先住民、その子孫のための娯楽作品である。

その昔テレビドラマ版の作品を観て「かつて脇役だったトントを、僕は一匹狼の戦士として演じたかった」(パンフレットより)と願ったジョニーデップを癒す物語である。

本来主役であったローン・レンジャーことジョンを喰って、トントは紛れもない主人公になった。ネイティブやコロニーで搾取された者の子孫たちに多大なるカタルシスを与えるエンターテイメントがこの世に誕生しただけでも涙が止まらない。

 

 

 

 

「ローン・レンジャー」感想 あるいはポスト・コロニアルについて(1)

先日「ローン・レンジャー」を観に行った。正直いって全く期待していなかった。

友人が誘ってくれなかったら一生観ていなかったおそれがある。

 

こんな超名作を!

パシリムも風立ちぬも抜いて今期最高、どころか今まで観た映画の中で一番だった。

いまだに「ウィリアム・テル序曲」が流れると泣いてしまいそうになる。

最初に一言、この作品は超ヤバイ:
アメリカ・白人そのものであり、彼らにむけたファンタジーを作り、世界に白人性を輸血し続けてきたディズニー社が、2013年になって先住民およびか つてコロニーにおいて搾取されてきた者、そしてその子孫にむけたファンタジー作品をはじめて作ったという極めてポストコロニアルな映画

なのだから。

これは大問題である。ディズニーといえばポカホンタス問題があった。(wiki参照)

長らくポカホンタス、そしてローンレンジャーのトントの二人の名前は、白人に媚びるネイティブとしてネイティブの間ではバカにされ続けてきた。

でも、今回の「ローン・レンジャー」は違う。

ネイティブアメリカンの血を引くジョニーデップが、完全に先住民の子孫のための勧善懲悪ファンタジーを作ったのだ。しかもそれをディズニーで!

これは、ジョニーデップが自分のために作った物語だ。

 

 

「パイレーツオブカリビアン」に夢中だったのはローティーンの頃だし、CMを目にしてはいたが食指を動かされてはいなかった。

 

だが、ディズニー映画やジョニデ出演作品への偏見でかためられたつまらない意識は開始何分だったかしらんが中盤から音をたてて崩壊していった。

実際ずっとすすり泣きしてたから音を立ててって誇大表現じゃないと思う。

 

 

ローン・レンジャー」は西部開拓時代を舞台にした復讐の物語である。あったはずだ。

しかし、いきなり場面は西部開拓時代よりもっと後の時代である。資料館のような場所にマスクで仮装した子どもが入っていき、そこに展示されている老ネイティブアメリカンの蝋人形?と出くわす。

なぜか等身大ネイティブ人形はしゃべりだし、しゃべるどころか動きだし、子どもに話しかけるがどうもかつての友人と人違いをしているようだ。

ネイティブは子どもに友人と冒険した話を語り出す。その語りはところどころ穴があったり時間の順序がおかしかったりする。子どもは時々補足をねだる。記憶は断絶しているのだ、子どもが話しかけるまで。

ややあってネイティブの老人・トントの記憶は物語のスタート地点に戻る。

 

列車の中で二人の男が縄につながれている。一人は若かりしトント、もう一人はその敵でありトントに悪霊と称されるキャヴェンディッシュである。

列車の中には後にトントのキモサベ(友)になる若き検事ジョン・リードがおり、六法全書のような書物をこれが僕の聖書です、などと言っている。

そのうち列車はキャヴェンディッシュの一味に襲撃され、トントは復讐を果たすチャンスをジョンに邪魔され逃した上に、助けてあげたはずのジョンによって法律をタテに逮捕されてしまう。

ジョンは自宅にトントをぶちこみ、兄家族に会いに行く。

兄は腕のきく保安官で、彼にコンプレックスを持っている弟ジョンは、故郷である西部を離れて都会で勉強していたがこのたび戻ってきたのだ。

が、悪党を武力で退治しようとする兄と法によって裁こうとする弟の意見は合わない。失望のうちに保安官一行に同行するが、返り討ちにあって全滅してしまう。

 

ジョン宅を抜け出したトントが復讐を完遂するために、勇敢な戦士である兄を生き返らせようと聖なる力を持ったスピリットホース、白馬のシルバーを呼ぶ。

なのにシルバーはトントの思惑そっちのけでジョンを生き返らせてしまう。

ここは結構な笑いどころで、トントはシルバーに向かって「長旅で疲れているんだな、かわいそうに」と言って観客の笑いをとるが、シルバーが「劣った弟」であるはずのジョンを生き返らせるのは必然である。

古き良き時代のアメリカを象徴する兄ではなく、法によって治められる新しい社会を象徴する弟と先住民のトントとでコンビを組めとシルバーは示唆しているのだ。(馬だからしゃべらないけど)

アーミー・ハマーのインタビューでも「ジョンはトントから多くを学び、トントもまたジョンから学ぶ」(パンフレットより)と語られるが、そのようすはまさに先住民と新しいアメリカ社会がお互いを少しずつ知りながら共生をさぐっていく過程に他ならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「風立ちぬ」感想(と「撃墜魔女ヒミカ」)

原作の感じを想定していたので肩すかしをくらった。

観てすぐの感想は、煮え切らないとしかいいようがなかった。よく出来た萌えポイントは沢山あったけど萌えの元祖みたいな監督だしそれは当然かもしれない。

分かりやすく盛り上げる場面はないし、切ないサナトリウム恋愛モノとか宣伝で強調されている「生きねば」のような強いメッセージ性とかでくくれるような映画ではなかったので、どういう風にとらえていいのか判断に困った。

劇中唯一涙をこらえたシーンは菜穂子が山に帰るところだけだ。

ただ、全編にわたって言い表しようのないさわやかさと呼べるような雰囲気が貫かれている。

 

そのさわやかさの正体は:キャラクターである。

二郎にはヒーローの常である葛藤がまるでない。

自分の周りの、天才型の人間を突き詰めたようなキャラが二郎だと思った。←芸術肌の変わった人って知人友人に一人はいるでしょ?

天才はその才能の代わりに何かを喪失しているのが定番だが、二郎にとって(私の知っている二郎みたいなあの子にとっても)それは社会性だろう。だから世渡り上手っぽい本庄君とは良いコンビといえる。

そして、二郎の周りには彼の障害となる人物はいない。母親は彼の夢をやさしく聞き、妹はなんだかんだいってお兄ちゃん大好きで彼の行動を受け止め世話を焼き続けるし、菜穂子は言わずもがな、最初は意地悪かと思った上司も実はすごくいい人だったパターンである。父親は全くといっていいほど描かれていない。天才には既存のロールモデルなど必要ないからだ。承認しサポートする人間だけが必要とされる。

劇中彼の障害になったのは特高と軍部のおえらいさんくらいだが、ノイズとして処理されている。分かりやすい悪役の役割を与えられたキャラが排除されているので、冒頭で言ったように盛り上がりがないと感じたのだろう。

二郎の作ったゼロ戦で死んでいった者たちに対しても、じつにアッサリとコメントしただけで済ませてしまっている。

 

このように、二郎には葛藤する暗さの要素が全くない。ズレてはいるけれども。ゆえにさわやかな感じを見る者に与える。

しかし、さわやかであること=負の側面を発生させない ことではない。

 

筆頭は菜穂子である。彼女は本来なら少しでも空気のよい場所で療養していなければならないが、愛する夫と一緒にいたいがために自分の身を文字通り削り続ける。

だが、すんなりと二人は彼らの状況を受け入れた(ように見える)。風立ちぬでは殆ど結核の業病っぷりとそれに由来する葛藤が描かれない。結核である必然性がない。ということは、ストーリー中で菜穂子は必ずしも結核でなくてはならないということはなかったのだ。他の病名をいくらでも代入できる。

彼女の役割は、か弱い病者ではなく、ただ単に「二郎を好きで好きでたまらなかった人」なのである。たまたま病気だったので命に関わる困難を体験してしまったが、おそらく病気じゃなかったとしても世間ズレしている二郎と共に生きている限りミニサイズ版の似たような苦労はつきなかっただろう。

つけ加えておくが、彼女の特異性は二郎の犠牲者にとどまらないことだ。美しいものにしか興味のない二郎が自分の美貌だけを愛していることを知っていたから山へと退場していったかわいそうな子ではない。

二郎が菜穂子をどうこう思っている以上に、菜穂子は恋している夫に生きる力が衰えていく姿を見せたくなかった。好きな人に自分の弱いところを見せたくないという言ってしまえばかっこつけの心理は、菜穂子自身のキャラクターにより見事に洗練されて視聴者の心を打つ。それをいいことに二郎は…という見方もできるけれど、やっぱり私は菜穂子の気持ちに共感するほうが強く出る。

新婚初夜のあのシーンも男女問わずグッときた人は多いと思う。菜穂子は風立ちぬのヒロインであり、ハッキリした自我と堂々としたふるまいをもって人々の心をつかむヒーローでもある。実は菜穂子の方が二郎よりも正統派主人公の役割に近いと思う。これ以上戦うと命を落としてしまうのに、それでも戦いにおもむくウルトラセブンみたいな。

 

で、そのような彼女の最後の登場シーン(といえるのか?)で、二郎は謝罪でなく「ありがとう」とズレ丸出しのセリフを言うわけだがそれが二郎が天才たる証拠である。

そこで大方の期待通り謝罪するならば凡人だ。「(僕と付き合うのは大変だったでしょう、)ありがとう」と言ってこそ、承認されて当然という天才なのだ。

 

話を二郎の業に戻す。この映画の感想をぐぐると、未来派にあてはめて批評している人が多い。その辺は北守さんや友達のマル~~がやってたから省く。

二郎は戦争に加担したことについてどう思っているのだろうか?

ここにこの映画を軍国賛美とも反戦映画とも定義しがたい、どっちともとれないような感触がある。

 

映画評論家の町山は、この映画を映画監督たち(もちろん宮崎駿)の自己投影だと分析した。(http://matome.naver.jp/odai/2137713216734546901)

庵野監督がまさかの主役声優になってしまうのも、(悪ノリじゃなくて)必然だったわけだ。プロフェッショナルでいかなる声も演じ切れるぜ、という人でなくどんな環境だろうが好きなことに没頭してしまう変人にやらせたかったのだ。

庵野監督の奥さんである安野モヨコ風立ちぬを観て泣いたらしいが、二郎みたいな人と結婚すると大変なんだから本当に…ということらしい(二郎タイプの人に惚れてしまった友人の苦労も思い出される…)。

また、少し前のNHK宮崎駿がもう小さい子や少年に向けてのお話を作り終えてしまったと話していた。ならば残るは自分語りである。自らの葛藤を風立ちぬで描いたといっていいだろう。

まとめると二郎=宮崎駿、あるいは無数のクリエイターは、内心反戦を願っていようがなんだろうが戦闘機やロボットに対する抗えない快感があり、それをどうすることもできないということである。

(町山はそれを男の性としているが女だってそうだぞ、バッカ。オタク気質なら誰だってそうだろう。パシリム観たとき怪獣博士に一番共感したもの。)

「生きねば」というキャッチコピーの重さと本編の内容とが全然合わないと思ったけど、もしかして自己矛盾を抱えていてもクリエイターとして生きねばということなのだろうか。

 

ちなみに二郎の性別を女に変えて、戦闘機を作る天才から戦闘機で戦う天才に変えると電撃文庫「撃墜魔女ヒミカ」のヒミカになる。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%83%E5%A2%9C%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%83%92%E3%83%9F%E3%82%AB)

全然売れなかったこのライトノベル、結構読み応えあって面白いので是非読んでほしい。

地上の俗事から離れ騎士道精神を持つ者同士で戦うパイロット達の中でも飛びぬけた才能と戦績を持つヒミカ・シンドウ帝国空軍中尉が、記者の質問責めにあうシーンがある。

「中尉はなんのために戦っているんです?」

「さあ」

「祖國のためですか?」

「私の祖國はむなくその悪い侵略國家よ」

「じゃあ、いったい?」

  …

「とりあえず、私は空を飛べればいいの」

 

ヒミカでは風立ちぬよりも強めに舞台となる帝国(いうまでもなく大日本帝国がモデルである)の腐敗具合について言及しているし、ヒミカが無口(これも二郎と一緒)な分、周りにいる人物が国に葛藤する思いをオモテに出している。

結局そのアンビバレンツも戦闘機に乗って闘うこと-相互にフェアな殺しあい-が好きだという欲望にのみこまれているし、腐敗した国への苛立ちから逃れるように一層ヒミカたちは空にあこがれて空を駆けていくのだが。

 

しょうがない。わたしだって現実の殺人はこの世からなくなればいいと願っているけどアサシンになりたいし変身ヒーローになって敵をボコボコにする夢だって捨ててない。ヤクザとは関わりたくないが任侠映画もマフィア映画も面白いと思ってしまう。誰にだって抗えない快感は存在する。

 

あと最後の最後で「ひこうき雲」流すのずるい。いや主題歌だから当たり前なんだけど。泣くでしょ。抗えない。ずるい。