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陰謀論とか相対性理論の歌詞だけにしてほしい

カンタンに右翼とか左翼とかヒトの立場を表すのに使われるけどさ、twitterみてたらいわゆる左翼のイメージである反原発の立場の人が人種差別したりしてるのって結構ある

 

一番多いのはユダヤ人が裏で何でもかんでも手をひいてるって言説で、その他に朝鮮人とかイスラムとかあるけれど殆どは陰謀論に基づいた脅威説である

 

オバマを信じる人々により陰謀論が拡散され信憑性のある形態になる現象を書いた論文があるが(http://t.co/t83mWrodhE)、その中でこれはと思う一節があった

 

陰謀論は国家やマスコミへの不信感はもちろんゼノフォビアやネイティビズムを吸い上げてあらわれるものであると

この論文では反オバマや反ユダヤに関して述べられているが、日本で言ったら在特会やその幻想を共有する人々が該当するし、その他何故か大麻クラスタ・反原発クラスタに多いユダヤ人やイルミナティの陰謀を信じる人々もそれにあたる

 

これで既存の右翼ではなく一見ふつうの人がきわめて政治的で過激な排外主義発言をするようになるという現象の説明がつく

 

これまで調べていたネット右翼に関する先行研究では格差社会だの不景気だの、在日特権()を信じてバッシングする人々にそれらしい背景をあたえてなんとかそれっぽい分析にしようとしているが、なんてことはない、そもそも人々のなかに自分とはちがう<他者>に対する嫌悪感・蔑視感情があるからこそ陰謀論が力を持つのだ

 

その発言をするヒトが右翼だろうが左翼だろうがフェミだろうが男根主義者だろうが反原発だろうが原発推進派だろうが大麻愛好者だろうが主婦だろうがサラリーマンだろうが非正規雇用だろうがヤンキーだろうがオタクだろうがリア充だろうが非モテだろうがミュージシャンだろうがボカロ中毒者だろうが関係ない、心の中に他者を疎外する感情があれば誰だって今日からだって陰謀論者になりうる

 

 

 

 

生物学的性だってグラデーションなくらいだから、何事もグラデーションだ

レイシズムにもグラデーションがある

陰謀論者を極めて濃いほうの排外主義だとすると、薄い排外主義はkpopはゴリ押しとか軽く言っちゃえる人々がそれにあたる

彼らはたぶん○○人死ね!とは言わないだろうが、彼らの中にも他者への蔑視感情があるからして、新世界秩序が世界を動かしているとは思わないが流行のポップスに対して馴染めない気分をゴリ押し説に投影するのである(もしもこれがフランス発エレクトロ新人ユニットだとかなら話は別 音楽文化における欧米への蔑視感情がないのと音楽ジャンルへの親和性によって陰謀論に吸い上げられる余地がない)

 

現代社会において人種差別的言説が闊歩する悲惨な状況ができてしまったのは、歴史修正主義の存在も確かにキーであろうが、歴史修正主義を信じなくともひろく都市伝説のような言説が跋扈し定着してしまう背景に、誰もがもっている他者への蔑視がある

陰謀論など昔は一部のトンデモな人々のものでしかなかったのに今になっておおっぴらに語られるようになったのは、排他的感情をコアとしつつ、パイオニア(東海アマとかかな?影響力のあるツイッタラー)による陰謀論的言説発言→フォロアーによる拡散とフィードバックによる幻想の強化→ウィキリアリティの形成という、ネットがインフラになった時代だからこその構造が出来たからなのである

 

これに対してどのような対抗策を打ち出せばよいのか?

 

陰謀論をとなえるヒトがいたら、彼女もしくは彼が他のあらゆるテーマで自分と意見を同じくしていてもそのヒトの発言自体を拡散させないこと

だって陰謀論言ってる時点でさしたる論拠・学術的根拠もなく発言してるのが目に見えてるので…

(陰謀論者の論述の手口については「ユダヤ陰謀説の正体」という新書でくわしく批判されている)

 

他は宮台が言うように民度をあげる=2ちゃんに書いてるよーなことはゴミというくらいのリテラシーが一般的に普及する 程度のことしか今は思いつかない・・

 

 

 

 

 

 

美男子はMP回復装置

お題【とにかく顔だけに限定して好きな男性芸能人・有名人】

 

物心ついた頃から女顔の線の細い美少年/美青年が好き、戦隊モノなら赤レンジャーより青レンジャーに熱をあげる性分なのでめちゃめちゃ分かりやすい

その上単純なのでちょっといい感じになった人に似てる芸能人好きになるんだけど現実で冷めると芸能人の方も興味なくなりますね

基本正統派美少年とジャニーズがストライクで加瀬亮系の塩顔ミニシアター系のお顔って全然良さが分からなかったんだけど今は守備範囲広くなったみたいでふつうにかっこいいと思う

 

現在は綾野剛を筆頭に栗原類、松潤、堺雅人、亀梨

知り合いのバンドマンが多部未華子熱愛報道が出たときに好きすぎて激欝になってたけどわたしも堺雅人結婚報道時に意気消沈して以来つらくて半沢直樹見ていない…

 

昔の芸能人ならジュリーとか加部正義とか、枯れ専の趣味はないので年とってからは興味ないけどリアルタイム世代だったら絶対キャーキャー言ってたと思う

美輪明宏の若かりし頃もお綺麗ですごい好きなんだけどあの方は性別を超越しているため性的なファンタジーを抱くことがないな

(ちなみに若かりし美輪明宏に似てる美青年の知人がいたんだけどその人としゃべるときだけすげーえ緊張して、イケメン怖いっていう感情ってこれかーって実感した)

 

性的にどうこうしたいわけではないけど染谷将太には悪い遊びいっぱいおしえたい

 

十年以内に加瀬亮をヤリ捨てするって友達と約束したのでがんばります!ウッス!

 

 

追記:リプライ読んで思い出したけど好きな芸能人の話したら韓国の留学生に「悪そうな男が好きなんですね、よく分かりました」って言われたけどああそうだよ!SHINeeならKEYが好きだよ!

 

 

終わりなき日常ってほんまかいな

「終わりなき日常」とか「思想の宙吊り」とか「モノはあっても物語のない時代」に悩んでいるひとたち(いるの?いるんだろうな)に全然同情できない

 

あ、でも数年前死ぬほどキレイな顔をしたひとつ上の男の人が、「君がうらやましいよバンドとか楽しそうでさ、俺は特に趣味も特技もないから」と言っていたな、あれはかなり絶望的な感じだった

それだけ顔がキレイなら悩む必要もないだろうにと思ったが「桐島、部活やめるってよ」のヒロキみたいに所謂リア充であってもうちこめるモノがないと人間は生きながら死んでいる状態になるんだろう

宮台の時代から現在の古市界隈の評論に至るまでそういった終わりなき日常に耐えられない人々というのは一定数いるようだ、というかわたしみたいなパッショネイトに何かにコミットし続ける(そして恥をさらし続ける)のが少数派っぽい

 

日常が面白いって思うようになったのはいつぐらいだろう?

その面白さってfunnyだけでなく不本意な状況におかれた時「ハハハ、まったくもってケッサクだ」というセリフを皮肉として吐いてしまうような意味での面白い、でもあるけれど

 

ちょっと足を伸ばせばパーティでもイケメンでも何でも転がっているのに、身を投じて遊んだり学んだり働いたりすることができるのにこの世のすべてがつまらない、くだらないみたいなことを言われてもハテナマークが浮かぶ

ただ、周りにこっちの世界は楽しいよと教えてくれる誰かがいたのはかなりキーポイントだった

いくらインターネットが普及して世界中の情報を検索できるといってもなかなか自分の知識の範囲外の情報にヒットするのは難しい

 

低俗霊DAYDREAM」で主人公が自殺した少年の死に対して「この国では本屋の平積みとゲームとポップミュージックだけが頼みの綱だわね」と批評する場面があるが、さしずめ今なら「まとめサイトとアルファツイッタラーとニコニコ動画」だろうか

心から好きになれるもの、または死んでいる自分を救うための知識を見つけるという自分探しは案外難しいだろうから、知に誘導してくれる存在が必要になってくる

わたしはたまたま知り合ったなかにそういうひとが何人かいたからその点ではあまり苦労しなかったかもしれない

 

 

 

 

以前の記事に引き続き「ゼロ年代の想像力」をつかって話をする

終わりなき日常を背景に95年「傷ついても他者と交わる」→90年代後半「セカイ系レイプファンタジー」やノスタルジーへの回帰→ゼロ年代決断主義・サヴァイブ系」の流れがあって、宇野は他者の排除をはらむ状況を打破する物語を評価しているんだけど

たとえば「メゾン・ド・ヒミコ」のゲイのための老人ホームで主人公沙織は父親の愛人である青年と出会って、セックスを試みるけれど失敗するという展開をむかえる-それを宇野は所有したりされたりしないゆるやかな共同性こそが彼女を回復すると評価してるんだよね

一瞬ブームになった「ラストフレンズ」に関してもセクシュアリティが異なるゆえに恋愛が成就しないことをゆるやかなつながり、擬似家族としてこれからの時代を生き抜くキーだと彼は考えているわけ

 

別にそれでもいいんだけど、擬似家族自体には超賛成だけど、セックスしたくらいで所有しただのされただのっつー考え自体古くないか

多少ハメたくらいで所有関係ができるなんてださい

(仲良しグループをひっかきまわしたり悪意があったりするのは論外だし大前提として自分と相手の思考やパワーバランスが合っていることが条件だが)

 

だから提唱します

 

ハメろ!モテろ!

 

それでもなおパワーバランスと信頼関係の壊れぬ友情を構築しろ!

もしくは恋愛してもセックスなしで平気な関係もイイ

重要なのは所有する/されるでなく鷹の団時代のキャスカとガッツみたいに、お互い背中を任せて戦えるような状態だ

ヘテロもゲイもレズビアンもノンセクシャルも関係ない、即ハメだろうがセックスレスだろうが友情を構築しセックス・恋愛を脱構築すること、これがポストゼロ年代テン年代の新しい風になるかもしれない(ほんまか?)

 

そんな相手どうやって見つけるのと言われたら困るけど類は友を呼ぶ理論でまず自分がそういうニンゲンになれば自ずと知り合うかもしれない

しれないばっかりで申し訳ないけど、とりあえず面白そうでしょ?

 

エビバデセイ ハメろ!

 

 

 

 

 

ディスコ・イズ・デッド

この間気になるツイートをみた。

正直にいうと誰がツイートしたものか覚えていないし、さっきこの記事を書くにあたってそのツイートをRTしている筈の某ラッパーの発言をさかのぼったけど、該当ツイは見当たらなかった。

なので正確に引用できないことを心苦しく思うが、その内容はおおむねこういうものだ。

「(不特定多数のクラバー女子を指し)お前たちのやっていること、オシャレ、アップした写真、などはすべて無意味」

といったようなことだった。

 

さて、これはどういうことだ?

クラバー女子の対になるべき存在はクラバー男子である。

で、これを書いていた(はずの)人もクラブへ繰り出し踊ったりフロアを沸かしていたりしているはずの男性。

クラバー女子のやっていることが無意味ならば、相対的にクラブに存在する彼女たち以外のもの=クラバー男子のやっていることは有意義として意味づけられる。

 

…などと考えていたところ、追い討ちで今度は知人DJと客が「ブスはニューエラをかぶるな」と発言していた。「だったら童貞とコミュ障はクラブにくんなよ」くらい言いそうになってしまうがそれは口に出したくない。売り言葉に買い言葉でつい反撃してしまいそうになったがそんなこと考えてない。クラブは誰がどんな風に楽しんでもいい自由な場所なのだ。

しかし、これは糾弾したい。頭で思っているのとオモテに出すのでは責任がまるで違う。理想をいえば人をきずつけるような考えが浮かばないのが一番だが、たとえ思っていても倫理観と照し合わせてみて不適当ならば口に出さないのがニンゲンのモラルである。

 カンタンに女の子たちをおとしめる言説を誰でも見れる/皆がいるところにポストできる風潮って一体何なんだろう?

 

数年前、毎月クラブで遊んでいた。

家族仲は破滅、学校の勉強は大変、オマケに生活費を自分で稼がねばならない境遇だったわたしにとって唯一の息抜きだった。月に数えるほどしかないオフの日の一つを必ずクラブにあてていた。

バンドもしていて楽しかったが、遊び場であり戦場であるライブハウスでは女子であることに起因するゆるせない案件があったため(mixiで書いたがそのうち転載する)、次第に純粋に客として遊ぶ場所はクラブへと移行していった。

そこでは変なプライドもなく皆が享楽的にお酒を飲んでタバコを吸い踊っていて、踊るのに疲れたらいつでも休んでいいし、誰としゃべってもいいしナンパをしてもされてもオーケー、要するに人に迷惑をかけなければ何をしたっていい本当に自由でわたしにとっては神聖な空間だった。

好きなジャンルの曲がかかるとブースの前に行き、お酒片手にいつまでも踊り続けた。多少の疲労では止まらない。疲労の限界点を越えて踊り続けるのも楽しい。いつだったかあまりにも生活に疲れていた時期にクラブで踊っていて、「まるで自分は音楽が鳴っている間だけ動くゾンビで、DJは現代のシャーマンみたい」と感じたことがある。

それくらいソトの世界のあれこれを忘れさせてくれるものだった。過去、わたしにとって生き延びるためになくてはならないものだった。きっと他の客だって多かれ少なかれそういう要素を求めて集っていただろう。退屈で過酷な日常を生き抜くために、あの空間は必要だったのだ。

 

わたしは文字通り全身全霊をかけて遊んでいた、ダンスフロアにすべてを捧げていた。最前列で踊ること、気軽なあいさつ、カクテルなどは意味がなくて意味があった。

 

それがなんだ。今やそういったことや、それらを記録にのこしておくことがバカにされているのだ。同じフロアにいる男たちによって。こんな矛盾した、かつ理不尽なことがあるだろうか。

「ただ、楽しむこと」フロアの原理はこれに尽きるといっていい。時に忘我の境地に至るまで楽しむこと、しかし気軽さを失わないこと、この論理を愛していた。

だけど今は、踊らせる側の登場人物も、踊る側の登場人物も、同じ踊る人間を貶している。徹底して重さのない、あぶくのような形のない夜(だからこそ、パッケージングして脳に残すのだ)を愛する人間を。貶す者にとってソレは仲間じゃない。女だから。

 

フロアはジャンル問わずサブカル男子の馴れ合いと化した。わたしの遊び場だってそうだ。イベントの細分化や身内化が大きく関わっているのかどうかは分からない。だって某有名ラッパーが客の女の子たちの遊び全部を無意味と評価を下したくらいだから。

 

原始、フロアは太陽だった。

あからさまな悪事は排除され、あとは自己の倫理で律された。だれとでもなかよくできたしだれともなかよくしないこともできた。

 

だからちゃちな、非常にこどもっぽいマッチョイズムが浸透したならもう終わり。軽さの論理にマッチョの重みを持ち込んだ時点で神は死んだし、その重みが理論化されるほどの強さを持っていないために余計厄介である。あくまで無自覚な「気軽な」会話として男同士で語られるのだ、某ラッパーのRTのように。

一介の客もダンスフロアの論理を最も体現するはずの演者もそういう表明をしたのだ。わたしはあきらめた。

生き延びるための場所がなくなったら、また次を探そう。同じような遊び方じゃないかもしれないけど、しょうがない。だって、何が起こるかわからんファンタジー性はもうクラブにはないのだ。

いや、違う。ファンタジー性がなくなったんじゃない。フロアでは今でも何でも起こり得るはずだけど、何が起こっても正しさや価値はホモソーシャルな目線によって評価されてしまう、ということだ。

 

女の子たちのやってることが「すべて無意味」ならばあなたがたはきっと<意味のある>行いをしているんだろう。フロアの論理を愛していたわたしからすれば馬鹿げたことだ。せいぜい<意味のある>もの同士でなかよくしていてくれ。

夜におしゃれすること、出かけること、集まること、踊ること、話すこと、踊り疲れること、刻みつけること、忘れること、遊びの世界が汚されたからさよーならしよう。

新しい遊び場を探し当ててサバイブする。息苦しい場所から脱出して冒険し新天地に飛び込むのは慣れているから大丈夫だ。”過去はどんなに暗くとも夢は夜ひらく”っていうしね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子鉄ちゃんからのお題

【自分の友達の中で「この子が、私の知っている人の中で一番、世間一般の、平均的な、20代前半の女性だなー」と思う子を挙げて、どういう所をしてそう思うのか。そういう友達がいない場合は、母性本能というコトバを聞いて真っ先に抱く感情について。】

 

大学のクラスメイトはわりかし所謂リア充多めだけど広く浅くの付き合いだったわたしが分析するのは筋違いだと思う。頻繁に遊ぶ友達は皆どこかしらやばポヨ。

アパレル関係に就職した友達が働きはじめてから世間一般の社会人(大卒)イメージに近くなったかな?と思ったけどあいつ最近「ポヨォ」に感染して自分でも使いまくってるらしいからやっぱダメポヨォ♥♥

 

なので母性本能について書くべきなんだけど頼むから言葉狩りしてほしいとしか言えないニャン♥♥

この単語を聞くたびに心の中の釘バットがブンブンうなっているぜ、次の犠牲者になりたいヤツはダレだ

 

 

 

 

時折人から「母性がある」といわれることがあるけど母性に惹かれて集う男は潜在的マザコンだろうから全然うれしくないですね

 

ちなみにこの記事を書いている途中で開けてはいけない記憶の扉をひらいてしまったことをお知らせします

 

 

 

 

 

 

結婚とかその他の話

保守コンとか婚姻制度は差別かとかみたいな結婚に関する話題がTLで出ている

自分はキャリアを積むのに手一杯、つまり自分のことだけで余裕がないのでそこに結婚組み込むビジョンがないしさしたる欲望もないが、もしこれから誰かと生活を共に形成するならばうちのボスを手本にしたいと思っている、というかそうでもなければ愛の生活なんてしたくない

 

ボスはanarchyだから事実婚のまま子どもを作り入学時だけいろいろ面倒だから入籍→離婚を繰り返しているらしい

結婚制度にとらわれないのも良いけれどそれに増してそういった価値観を共有し実行してくれるパートナーがいるのがうらやましい

ポリティカルな活動していく中で出会ったのかな?そうでなければものすごく自分を盲信的に好きで崇拝しているようなひとじゃないとなかなか"王道"から逸脱した選択しは受け入れてくれないよね、

 

私は”在日である自分”を重視しているから既成の結婚制度には色々思うところがあって結婚面倒くさいなと思う、

相手がよくても相手の家族がガイジンに偏見もってるとかよくある話だし一回経験したし

他にも例えば子どもができたら子どもの国籍どうする?とか教育は?とか考えたらキリがない

民族学校に入れるという選択肢は自分が行ったことがないから想像がつかないけど何らかの形でルーツとなる文化くらい知っておいてほしいと思うし

在日形成史だって教養として、そして玉石混交の情報がネットや噂で飛び交う今の時代において身を守る術として知っておいてほしいが、一方で自分ほどの苦労をさせたくない=この国で外国人・移民の子孫としての人生を歩ませないほうがいいんじゃないかとも思う

…というようなことを考えると頭が痛くなるのでめんどくせえし結婚いらねえわという結論に至る

あ、国籍に関する云々のぞいても夫婦のどちらかが名字変えなきゃいけないのいやだなあ

 

こういうことばかり考えてしまうので、先日既婚の幼馴染に聞いてみた

 

「ねーえ、私に結婚に対してメリットというか夢が持てるようなこと言って?」

「やっぱり二馬力で働いてるから生活が安定するよ!」

 (そういうことを期待してたんじゃないけどまあいいや、すばらしい回答だ)

 

 

 

宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」を読むと、既成のカップル・家族像にとらわれないまったりしたつながりを彼は評価している

友人にルームシェアの話を持ちかけられたのがきっかけなんだけど、最近そういったつながりを基盤にした、それぞれにちょっとした欠落とかやっこい状況とか抱えてる人間が共同する生活、のことを想像している

面白くて好きな友人たちと共同生活を営みたいが、ウサギ小屋みたいな部屋はいやでそれなりに文化的な水準の暮らしと創作活動をする時間も持ちたい、でも皆バイトしか収入を得る手段がない、といった状況を想像すると、一人が風俗やって主たる収入を稼ぎ生活を保持するという手段が浮かんだ

 

ヒモをもったわけでなく、友達と生活したいからと主体的に風俗で働いてルームメイト養う女の子(男の子でもいいけど)の話おもしろそう、書きたい

 

 

「ローン・レンジャー」感想 あるいはポスト・コロニアルについて(3)

ジョンとトントは故郷に別れを告げてどこかへ去っていく。そこで記憶は終わる。

舞台が1930年代へと戻り、子どもとトントはお別れの時間になる。

なんと、それまでネイティブアメリカンのステレオタイプなイメージそのものの格好をしていたトントは、ハットにスーツを着て去っていくのだ。

いかにもアメリカ白人っぽい格好をしてふらつきながら歩き出したよぼよぼのトントはどこへ向かったのか?

それはもはや家族も家もなくなった故郷テキサス。スクリーンが真っ暗になるまで、延々と昔の西部の自然のなかを歩き続けるトントだけが映し出される。

故郷を失ったloneなトントは、故郷と呼ぶべき場所がこの世のどこにも存在しないから、アメリカ社会で生きることを選択しただろう。

それでも、先住民といわれる人々やその子孫がいくらアメリカに同化しようと、消えないものが必ずある。亡霊と呼ばれ文字通り亡き者にされたとしても、心の中だけは殺せない。その心の中の風景があのエンドロールだ。

昔日本でも植民地に対する同化政策というものがあった。でも、完全に成功したわけではない。植民地の文化は、さまざまなかたちで現代にも残っている。(私の祖母は同化政策がきつい時代に生きてたはずなのに、死ぬまでずっとコーン茶を飲んでいた)

パンフレットのジョニーデップインタビューでも、現代においてネイティブアメリカンがルーツを保つことについてしっかり語られているので、興味を持った人は読んでほしい。

 

トントに帰るところはないから静かにアメリカの社会に市民として溶け込むだろう、トントの歴史は博物館の見世物としてしか見られないけど、それでもトントの中の記憶の風景は(断絶しても)完全に消えさることはない。

 

勧善懲悪のファンタジーはこんな風に締めくくられる。やりきれない話だ。復讐が終わってもトントに残されたのは複雑な状況でしかない。

監督のゴア・ヴァービンスキーは、「この映画には喪失感がある。トントの感じている喪失感がね。」と述べているが、それはそのまま現代におけるトントのような人々の喪失感につながる。それをどうして克服していくかなどは「ローン・レンジャー」では語られない。

だが、これがポストコロニアルだ。わかりやすく全員が納得できる解決策が存在しない状況そのものがポストコロニアル的なのである。

ローン・レンジャー」はよくできたエンタメ、ファンタジーでありながら、一方で現代のポストコロニアルの重大な問題を描写した作品なのだ。

 

ここからは私の物語である。

 

映画が終わり涙をふきながらスクリーンを出ると、目の前に若いカップルがいて映画の感想を話していた。

「なんか、シュールだったね。最後のアクションはすごかったけど。」

「意味がわかんなかった。」

 

そりゃあまあ、あなたたちには分からなくてもしょうがないわ、と思った。

これは未だポストコロニアルな状況にいる者にひびく物語なのだから。

 

トントも私も、いつまでも「傷ついた少年」のままではいられない。「既に亡霊」かもしれない記憶、喪失感と現状のどうにもならなさを抱えて、それでも歩いていくしかない。

具体的なロールモデルがなくとも、ポストコロニアルに生きる人間は、今いる社会の中で自力で人生を模索していくしかないんだろう。

たまには西部劇でも観ながらね。

 

 

 

 

ところで。

「可愛いのが好きなの~」のあの人はなんだったんでしょう。

基本キャラの役割に無駄がないと思うんだけど、あれだけは何の役回りなのかよくわかんなかった。面白かったけど。

キャヴェンディッシュに恋している、という解釈見てそれっぽいと思ったけど、だからといってトントやジョンに直接影響があるわけでもないのでどういう意図なのかなーと。