焦げた後に湿った生活

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えろともだち

イライラするとクジラックスや朝凪を読む傾向にあるがなぜだかわからない。
特に朝凪は露骨な女性蔑視(と女性崇拝)があけすけでイヤになることさえあるのに、どうしてかやりきれない状態におちいると読みたくなる。薬物と快楽堕ちが好きだからというのもあるだろうがやはりあの作風を求めている。
理不尽さへの現実逃避に理不尽なストーリーのエロ漫画を選択するのはどういうことだろう?

町田ひらくを貸してくれた人に「これを読んであなたはいたぶられる少女といたぶる男のどちらに感情移入するのか」と聞いた。無論私はいたぶられる少女の方だ。その人は作品によって変わると答えたが、「男の情けなさみたいなものを楽しむために読んでいるフシがある」と言ったのがおもしろかった。

なるほどエロ漫画の加虐者はだいたい情けない。朝凪の作品でもクジラックスの作品でもそうだ。前者は女に神性を押し付けるオールドな身勝手さで、後者は自己にとじこもるか暴力による一時の連帯しかできないコミュニケーション不全者だ。そもそも性的な欲望を制御できないという情けなさもある。なんせエロ漫画だし。

以前「どれだけムカつく奴がいてもそいつがイッている時の顔を想像するとブチギレそうになるのを抑えられる」と言った友人がいた。私にもそういう傾向はある。キモくてムカつくおっさんに絡まれてる時でも「でもこいつにもチンコあるんだよなあ」と考えるととたんにバカバカしくなってしまうのだ。バカバカしいとは軽蔑と哀れみである。欲に左右される器官を所持していることと、そんなものをぶらさげている者がわめいている状況の滑稽さ。
そこには人間のバカバカしさを性に収束して嘲笑うことで自分へ向かう理不尽な攻撃を無力化したいという力学が働いている。

私がイライラすると朝凪やクジラックスを読むのも同じことなのかもしれない。私は多分、暴力的なエロ漫画を通じて男の身勝手さを逆に消費しているのだと思う。被虐者が快楽堕ちしていく過程で興奮しながらついでに加虐者の滑稽さを無意識にせせら笑ってきたのだろう。
性が加虐者と被虐者を転換させ、倒錯的な構造が発生するというへんな現象がおこっている。
まあふだんそんな小難しいこと考えながらエロ漫画読んでないけどね。





あとはロマンティック・ラブ・イデオロギーに即した作品だとフェミニズム的にアラが目立つのでかえって薬物・快楽堕ちのほうがよいという人がいた。加虐者が悪いに決まっているし思いっきりファンタジーなので安心して読めるということだろうか。





能動的最先端

先日男と別れたので自由恋愛に戻った。
たった2ヶ月コンツェルン化しただけなので自由恋愛の神は私をゆるして出戻らせてくれるわ、なんせここ数年ずっとうまくやってきたのだから、と思った。

慣れた世界に戻ったはずだが世界の見え方は違っていた。久々に連絡したボーイフレンドは概ねみんなやさしかった。モテる男はやさしい。傷ついたことを察して癒えるまで好きなだけ頼ればよいと示してくれた。なぜ説明しなくてもわかるのかとたずねると、「君みたいな普段ちゃんとしてるひとに何かあったならわかるしそりゃ心配するよ」とのことだった。
いくらフリースタイルとはいえヨソの男の話なんて聞いて不愉快なことはあっても機嫌がよくなることはないだろうに、とてもありがたかった。

ありがたみの感じ方がちがう。並の感じ方ではなくてひしひしと感じる。
己の空虚を見ないようにするために女を利用するタイプの阿部薫系男子にあたってしまったが、かなりのMPは奪われたもののコアが破壊されていないので大丈夫だ、と思いたい。
私のコアは別れてからわかった。みんながお前はいいヤツだからこんなことで苦しむなと言ってくれるしボーイフレンドがやさしいのは今まで彼らをないがしろにすることがなかったからだ。情けは人のためならずというが相手を大事にしているからいざというとき自分も大事にされる。私は遊び人だが遊び人なりの仁義をとおしている、というか仁義をとおせるような性格だから遊び人でうまくやっていけていたのだろう。
仁義とは人と人との間に発生するものであり、低レベルな遊び人はこれができない。遊び人は内部構造が砂漠であってはいけない。砂漠の乾きに耐えられないからどこかから水分をぶんどって一時しのぎするようでは粋ではない。相手を搾取しなければちゃんと粋でなさけのあるボーイフレンドが残るのだ。


私の他にバタバタと何人か別れていた。しかも長年の友人が多い。昔からの友人が家に来て、女と別れたというのでへえーあんたもと聞くとミョーに自分の話と合致するところがあった。
数年、自由恋愛の徒として聖者になろうと修羅の道を歩んできたひとって、同じような運命たどるのかしら?


我々はインチキ自己肯定に恋愛を利用しない。かといって恋愛に救いをもとめずにいて、これからどうなるのか?歴戦の猛者同士話しているとそんなトピックになった。


どうなるかなんて、わからない。我々はオルタナなのだから!そのへんの空虚ヤリチンとは一線を画しているのだから。最先端をいって、成果はあとからしか見えない。ロールモデルなどないから、よくよく不粋にせぬよう心がけなければならぬ。修羅の道である。それでも我々が誇りを失わないかぎり、およそ人間というものをナメないかぎり、自由恋愛の神は我々に微笑む、のだと信じている。自由恋愛の神の眷属の遊びはまだまだこれからだもの。

圧倒的無成長

クジラックスの「ろりともだち」を再読した。おもしろいけどだからなんやねんという。この話は読者に共感をあたえても救いはもたらさない。 一時の連帯と自己肯定感をもたらすものは暴力でありそれは長続きしない。新井英樹のワールドイズマインを読んだ時と同じがっかり感である。

自身の欲望をコントロールしないことが純粋で自由だという言説には飽き飽きしているがまだマンガの世界では活きているのか。「ろりともだち」でもレイプ犯の2人は自殺するし、結局のところ、他の道を探すしかない。

人間は誰しもマイナスのエネルギーとどう折り合いをつけていくかという問題から逃れられないと思うが、「ろりともだち」も「ワールドイズマイン」もマイナスのエネルギーがあります、だからそれをとりあえず出しますというだけの話だ、それから先をどうするかではなく。作品自体のおもしろさとは関係なくここにモヤる。

 

 

マイナスのエネルギーとどう折り合いをつけるかという問題は、少し前に話題になったディズニーの「アナと雪の女王」にも登場した。

エルサは持って生まれた冷凍能力をもてあまし、生まれて初めて全力を出し美しい氷の城を作った時は独りだった。その後ストーリーの最後で皆の元へ戻った時には能力の使い方が矮小化されていた点について、「抑圧されていない状態ではあれだけ美しいものを作れるのに、皆と生きるにはちっぽけなことにしか能力を発揮してはいけないのか」とコメントした人を見たことがある。

 

それはそれで着眼点だと思うが(特に女児はいいこちゃん幻想をおしつけられ自分の能力をフルに使わせてもらえない抑圧があるから)、あのラストのキモはエルサが笑顔でいるところだ。エルサが自分をコントロールでき、無理なく家族であるアナや他の人と共に居られるようになったことだ。

それは家族といえどもキャラの違うアナと向き合い葛藤したことで得られたものである。

 

「ろりともだち」にはそれがない。主人公は暴力でつながった一時の連帯しかなく、話す言葉はほとんどモノローグである。無論レイプする女児とのコミュニケーションはない。

「ワールドイズマイン」のモンちゃんはマリアには心を開いたが、それは母を求める幼児そのものであり、他者との対峙ではありえない。

 

 

なんか、エヴァ批評で散々言われてたことをまだやってるんだなあ…という状況に厭いている。いつまでも大久保清やってらんないよなあ

その先をどうするんだ、それが知りたいんだ、とここ数年ずっと思っています…

 

生き続けるを選択し続けるシステム

人質について空想した。あの殺されてしまった二名のことではない。あのことが発生するよりもっと前に漠然と、自分にとってどんな条件でも取引に応じて手元に残さなければならないもののことを考えていた。それはたまたま人だったから人質という空想になったけど。

 

いつの冬だか忘れたけど、とにかく冬、正月も明けてすぐの日、何かの作業をせねばならず夜通し起きていた時にそのメール返信はきた。

少し年上で同じ星座と血液型のその人は大学の同期で、どのような規模でどのような中身であれ集まりというものに滅多に顔を出さなかった。

何故かその人の世話をやくことがライフワークのひとつだった。といっても、私はだいたいいつも忙しく、向こうも学生時代ずっと「遭遇したらその日は大吉」などと揶揄されるほどレアキャラだったので数ヶ月に一度思い出したように生存報告させるために呼び出してお茶をするという活動に限られた。 

 

 その人を仮にA氏とすると、A氏は一見あまり人とコミュニケートすることを好まないようにみえるが話しかけたらスムーズに受け答えしてくれるし、個人的な話もしてくれるし、何か困ったことが起こった時に突然愚痴をこぼしてもたいがい快く対応してくれた。よくあるコミュ障とかでなく、ふつうの好青年なのに見かけは一切を遮断しているようなポーズをしている。それでいてそのポーズは簡単にオフにできるのだ。(この反転をどう分析したらいいのか彼が消えた今でも未だにわからない) 

 

私が梅田で飲んで電車で京都に帰っていた時、突然尿意が抑えきれなくなって途中の駅で降りたことがあった。トイレを済ませてもう一本後の電車に乗ろうとしたら、さっき降りたものが最終で、私は大阪と京都のど真ん中で宙ぶらりんになってしまった。ここがせめてどちらか寄りであればなんとかなるものを…となげきながら途方に暮れてしまった。脳のアーカイブを漁って、周辺に住んでいる連絡がとれそうなひとにかたっぱしからコンタクトしていたら、A氏が夜のさなかにやってきてくれるという。

 

全然土地勘のない街に放り出されてどうしようもないときにA氏が来てくれるからすごくありがたかったけどひとつ悩ましいことがあって、これは恥ずかしいけど事実だから書くけども、じつはほんとーにトイレを我慢できなくて少し濡らしてしまって、私はえいやっとコンビニに入って無印の下着を買い(未だにクローゼットに入っている)、たまたま持ち歩いていたバイトの制服のズボンを履いた。もともと履いていたものはレジ袋につっこんでおいた。

 

そうしてA氏がバイクで登場すると、私は何事もないかのように制服のズボンで彼の前に立って来てくれてありがとうと告げた。堂々とハッタリをかますのはいつの間にか身についた技術である。でも小心者なので一応先にバラしておこうと上記のことを告げると、彼は「なんだそういうこと、ふつうにいつもの服だと思ってた。言われないとわからないよ」と感心していた。それが思いやりから出た一言なのか実際だまされていた感想なのかは知らない。 

 

 始発の時間まで付き合うよと24h営業の喫茶店に連れて行ってくれて、毎度の如く近況報告をした。当時はたしか卒業間近かしてすぐかの時期だ。なんとA氏はコーヒー代まで払ってくれた。前回の生存確認でカフェに行った時、私が誕生日プレゼントとして彼の分をおごったおかえしらしい。すっぽり忘れていたし、おかえししてもらったらプレゼントにならんのではないかなーと考えたけど、うれしかったので素直に奢ってもらって改札で別れた。

 

それが最後に会った時だ。

いつも素早く返事をくれる人間がかなりの間をおいて、意味深なメッセージを残して連絡を絶った。

共通の友人に聞いたりたのんだりしてまわっても、誰も連絡が取れない。むしろ、私が一番連絡を取っていたという頼りにならない事実がわかっただけだった。

 

気が狂いそうになった。すぐ数日前にひとり知人を失った(ということを確認した)。そっちはなんとなく恐れていたことが現実となってしまったのでどうしようもなかった。後に残されたのは自分の気持ちをどう処理するか?という問題だけだった。最後にその子と会話した時は、なんでもないわらいばなしをしていて元気がないならこれやるよとお気に入りのエロ画像をあげて喜ばれたのだった。よかった、笑って別れたわ。

しかし今はちがう。まだあがく余地が残っている。あらゆる手段を、性急に使っていった。こういう時私は手を緩めない。正攻法を全力でやる。よく呆れられる性質である…が、それでも成果は得られなかった。 

 

有益な情報を得られるかもしれない最後のツナから何も手繰り寄せられなかったので、私は立ちあがった。コートを着て、ふらふらと部屋を出て行った。

 足のむくままに歩いていった。徹夜明けで頭にもやはかかっているし、とにかくダルい。それだけでなく急速に生命エネルギーが地面に吸い取られていくような気さえする。一旦休もうとガードレールに腰をかけて、気づいた。

ここがどこか。

 

気も狂わんばかりに無我夢中で歩いていたのに、無意識に助けを求めていたらしい。ここは友達のひとりが住んでいる近くだった。電話をかけた。通話先は、出なかった。少し戻って、コンビニで缶コーヒーをかって指先を温め、煙草に火をつけてもう一人の友に電話をかける。今度は出た。事情を話すと、すぐ来てくれるらしい。

 

私は気が狂わずに済んだ。電話に出なかった方は、のちに連絡が来た。この日には登場しないけど、もう一人頼りにしている友人がいて、この三人はこれまでも何度も窮地に陥るたびにカムバックするだけのMPを与えてくれた。どれだけめちゃくちゃな目に遭って心が折れかけても、それでも問題を解決して前に進むための活力と冷静さを回復するためにはこいつらに会わないといけない。

言語化しなくても脳は覚えていてそのうちの一人の家の近くまで足を運ぶように体に命令した。システム化できていてよかった。

それから数時間後、電話に出たほうを駅まで迎えに行って、自分の家でしこたま飲んだ。かなりみっともないけど、頼むからここだけはいなくならないでほしいと思った。その日だけじゃないけど、毎回打ちのめされて彼らに助けを求めるたびに、ここは取り替え不可能すぎると痛感する。

 

 

これまで書いたのは思い出話だけど、今だってそう。

それさえあればどんな悲惨さを前にしても正気でいられるものがあってよかったと心から思う。 

 

 想像する。もしも何か重大なものを背負い守っている立場にいたとして、私が守っているものを差し出さないと一番大事なものを壊すと選択をつきつけられたら、迷わず一番大事なものをとるだろう。人間には皆優先順位があって、私の最上位はMPを回復してくれる人たち。それを失うわけにはいかない。

正気でいさせてくれる人たちを失ったあとの世界に興味がない。興味がないというよりそこに存在することが難しい。仮に失ったとしても表面的には何も変わらないかもしれない。けど次に心が折れたらおしまいだ。カムバックする余力がない。だから、優先順位の最上位を無慈悲に選んでその他すべてを崩壊させたとしても、しょーがないじゃんと言い放てると思う。

 

それは愛(この場合は友情としての)だけれども、愛を向けられている相手の思惑を必要としない愛だから一方的だと思う。友人を、概念にしている。ともかく、それがあれば生き続けることが可能になるとゆーものを見つけられてよかった。この世には自分を救うための信仰を見つけられずにどーしよーもなく宙ぶらりんな人々がたくさんいるのに、私は既に常に生を選択できるシステムを所持している。しかも奇跡的に、友達というバランスのよい形で。

 

 私が失ってしまった彼ら(A氏以外にも2人ほど失踪した友人がいるし、また、苦しんでいるのをわかっていながら何もしてあげられなかった人もいる)はどうだろうか? A氏は、私が数日遅れのバースデーとしてカフェに連れて行ったことを生き続ける燃料に出来ただろうか?そーいえば、昔カロリーメイトばっか食べてないでまともなもの食えよと弁当を余分に作ったらありがたく頂戴すると大げさに感謝されたけど、それは彼にとって苦しみながらもカムバックを選択するための一押しになっただろうか。

エロ画像を送ったら喜んでいた知人は、きっとこのことは一生覚えておくと言っていたのにその一生を早くも閉じてしまった。ねがわくば、コーヒーも弁当も全部生きるためのエネルギーに、変換して消費される記憶であってほしい。 

でも、きっと、だめだったんだろうな、という諦念が心の底で支配している。

 

 私には何か自分の中の大事なものが壊れそうになった時のストッパーがいるけれど私自身は誰のストッパーにもなれなかった。システムとして君臨することが出来なかった。 私は定期的にこうやって、手持ちのカードから常に最善を選んで戦う気力があることとその気力を支えている信仰、システムが実在していることを感謝しながら、失踪した人びとにどうか無事で帰ってきてほしいとモノローグで祈るだけの無力さにうちのめされる。

可能な限りセーフティネットになりたいけど、無力だし、でも間近で溟い謎を投げかけられたら毎回奮闘してしまう。諦念ベースだけど、全部投げ出しはしない。

しょーはしパンダからのお題

今回は「言葉」についてです。

割とざっくりしたテーマなのでどんな切り口でやるか迷いましたが、自分が数年かかっても分析できなかった事象を、これこーゆーことなんじゃないのと言ってくれるひとがいるかもしれないという期待を込めて事例をそのまま書いてみようと思います。


それはある知人のことです。知り合って割と長く、幾度となくサシであったこともあるし喋ったこともあるけれども全く理解できない人です。

だからといってきらいなわけではなく好きすぎるくらいですが、その人と言葉を交わして手応えがあったという感覚を感じたことがありません。


ふつう、人と話しているとたとえ本音のセリフでなくても(良くも悪くも)琴線に触れるフレーズがあるものではないでしょうか。


1.シリアスな会話で熱のあるやりとりをする

2.片方は自説をといていてもう片方はふんふん聞いている

3.他愛ない会話やふと漏らしたひとことがたまたまひっかかる

4.何かしらの相談


だいたいこういったパターンがあるかと思いますがその知人と話していてパターンに当てはまった記憶が全くありません。

あらためて思い返すと当たり障りない世間話しかしていない。


共通の友人に聞いてみましたが友人に対してもそんな感じなのでだいたい誰に対してもそうなのだと予想されます。

これまで会った中でこのよーな在り方をする人はその人しかおらず、当初は面食らって自分の言葉が伝わっていないからいつものようなコミュニケーションが出来ないのだと感じ、自分はある言葉を投げることを試しました。


それが何なのかはここでは書きませんが、その言葉を投げかけられた以上、答えずにはいられないものです。無視や沈黙すら回答になる。


しかし、試みは失敗に終わりました。文字通りその言葉はその人を素通りしてしまったのです。

他の人なら必ず響くであろうはずの言葉にすら、良い反応も悪い反応もしめされず、言葉から意味や文脈は消滅してしまいました


推測ですがその人と、自分や他の人とは全く違う言語体系を成しています。その人の母語は日本語です。しかし、母語が同じでもその人の身体に織り成された”言葉をどう形成し、どう使うか”という文化は全然違います。


多分、あの時投げた言葉を意味のあるものとして響かせるにはきっとその人の言語コードに合わせて使わなければならなかったのですが、何年経ってもこの言葉はこういう時にこうやって放てば届く、といった分析がひとつも出来ていません。世間話しかしていないのだから当たり前といえば当たり前です。


その人からは失言を聞いたことがありません。言葉によって傷つけられたこともないけど、何か大事なものを交わせたことも多分ない(相手はあるかもしれないけどそれを認識できない)。

何年もそんな感じでうまくやってるならこれはこれで健全な付き合いなのか?


全ては出来るか出来ないかも分からぬ言葉の分析しだい。





【感想】演劇「ツレがウヨになりまして。」

つい先日、京都市内某所で笑の内閣上皇高間氏と知り合った。

ツレウヨのことは前々からツイッターでフォローしてる方々が話題にしていたので知ってはいた。

「ツレがウヨになりましてってあるけどさー、何年も前にそれ体験してるもん。元カレがネトウヨだった!」と上皇にお話しすると、それなら是非先駆者に観てもらおー、と早割チケットを買うことになったのだった。

 

元カレがネトウヨだった話は古参フォロワーなら知っていると思うが

彼「(車中にて)バイト先の中国人腹立つわー」

私「その人が仕事できないことと国籍は関係ないやん」

彼「俺、中国人とか韓国人とか嫌いやから!」

私「へーそう、じゃあ車から降ろして。嫌いなんでしょ?さよーなら(即降車)」

彼「えっちょっと・・待ってくれーーーーー!!!!!いかないでーーーーー!!!!!」

 

というエピソードがありまして。この件は元カレが平謝りすることで終わったが(その後別れたのは別の理由である)笑の内閣はどういう答えをつきつけるのか?易しい選択肢などまるでなさそうな”ネトウヨとの恋愛”をどう料理してくれるのだろう、と期待しながら会場へ向かった。

 

感想は、一言でいうと、”コメディとしてはおもしろい”。

それ以外の要素でよかったとは言えない。(ごめんなさい)

なぜなら、ネトウヨがどうこう以前に、劇中で展開される恋愛が破綻しているからだ。

愛国心と恋愛をキーワードにしたうえで、「汚点を見ないふりしたりしてごまかさず、そのまま認めて愛することこそ真の愛である」という落としどころを出したのが「ツレウヨ」のストーリーなのだが、愛国心に対してはともかく、劇中の恋愛にその解をあてはめるには無理がありすぎる。

 

まず、主人公あおいの彼氏蒼甫がダメ男すぎる。何一ついいところが見当たらない。

人間関係は利害だけで構築するものではない、だが、他者に害をなし甘ったれているだけで努力もせず頭も意志も弱いなよなよしたデメリットしかない男なんて問題外である。そいつが唯一承認欲求を満たせるのが排外主義もしくは美女による無償の愛だなんてダサすぎる。後者なんてまるでセカイ系の焼き直しではないか。

せめて蒼甫の過去のかっこいいエピソードの一つでも語られていたならば、まだ何とか、という感じだけれど。魅力…なかったなぁ。

 

ふたつめ、蒼甫の愛し方(愛国心)が気持ち悪いと劇中でつっこまれていたが、あおいの愛し方(恋愛)も相当気持ち悪い。

上記のように蒼甫には何一ついいところがないんだけど、あおいは何故蒼甫から離れないのか。ダメ男に対して私がいないとあの人はダメなのだ、という執着。

これを純愛と呼んでいいのだろうか?

あおいのセリフ、あおいの行動のひとつひとつは、デモデモダッテばかりだ。私にはあおいは自ら牢屋に入り、自らの手で牢屋の鍵を投げ捨てるようなヒト-つまり、DV被害者なんかにありがちな共依存にしか見えなかった。

一方の与えるリターンが極端に少なく、もう一方は精神的に追い詰められ自ら退路を断ってしまわねば成立しない恋愛とは・・

 

以上が恋愛劇として破綻していると感じた理由である。

 

 

最後に、蒼甫が行った他人を害する行為について、蒼甫から(他のどのキャラクタからも…)内省や批判がなかったことがものすごく消化不良な感じだった。

蒼甫の「思想」へのツッコミとして

天皇陛下の意志に全然従ってないじゃん

・韓国韓国言ってほんとは韓国好きなんじゃないの?

・日本が評価されることを自分が評価されることと勘違いしてる

など言われることはあったけれど、すっぽり抜け落ちている目線もある。

まあ、当たり前なんだけど、ネトウヨの言動、書き込み、行動で傷つく実在の人間っているんだよ。そのことへの言及が全くなかった。あえてその問題点は省いたのかもしれないけど、そのへんの清算をせずに終わるのって不完全燃焼だなーと。難しい問題だし、誰が正解出せるんだよって話だけど、トライしてほしかった部分である。

あおいが蒼甫に言った「ネットで何言ってもいいけど街でやるのは~」みたいなセリフで「ハァ?」と思ったこともあって、最初から最後まで奥歯にモノ挟まってる感が抜けなかったのは確か。

 

 

 

 

 

批判の文章ばっかりになったけどコメディとしては面白かったっす。実際何回も笑うところあったし。あとお父さん役の俳優さんがモロ好みだった。でもネット右翼って題材を活かしきれたかっていうとちょっとなーというところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でもラルクってV系じゃないよな

お題【ヴィジュアル系にハマったことはあるか、ない場合は周囲にいたバンギャル、それもいない場合は自分が知っているヴィジュアル系の情報】

 

完全に後追いで中三の時分よりラルクファンだった(その頃彼らは活動休止していた)

彼らの全盛期っておそらく小4-5がピークなんだろうけど、当時JPOP自体に興味なかったので当然スルーしており、その後好きだった人(クラスメイトのお兄さん!)がラルクファンなので共通の話題をつかもうととりあえず聴いてみたらハマったクチである

コンサートも三回は行った!(そのうち一回はなんとレッチリ・ブラックアイドピーズも出るフェスですごい面子だったけどトリの矢沢栄吉ファンの態度が悪すぎたせいで○ドー関係のフェスにいい印象がない・・)

 

バンギャルの知り合いはまあまあいたけどおしなべて感情の起伏がはげしいなって感じ

彼女らとはもう疎遠になってしまったので今どうしてるのかはわからない、最後にV系の友と会ったのはアーバンギャルドとサンドイッチで120分が出てたイベントだからもう四年くらい前か?

そのライブで少し考えたことがあるので書いてみよう

 

今までV系のライブに行ったのはラルクだけで、それも大規模すぎて、サン分あたりが出るようなそこそこのハコでV系を観たことってなかったわけ

これを書いているうちに思い出したが、当日寝坊した自分はほとんどパジャマのまま家を飛び出て会場に向かった

主旨とは関係ないけどアーバンギャルドは音がスカスカだったなあ、今ライブに行ったらもっといい感じになってるのかな?

お目当てのアーバンとサン分には間に合ったので友人と一緒にライブを観ていたら、最前列を確保しているグループに気づく

グループといっても四人くらいのものだが、その集団はライブ中一度もそこをどくことはなく、曲に合わせてふりつけをし、周りの観客もなんとなく彼女らに距離を置いていた

友人にあのグループは何なのか、彼女らのしているふりつけはああいうダンスがPVで使われてでもいるのかと訊ねると、「古参ファンで、あのふりつけも公式のダンスというわけではなく古参が考えている」との回答がかえってきた

もしも古参ファン考案のふりつけ以外の踊りやハンドサインをしたらどうなるのかと問うと、多分目をつけられる、と友人は言った

 

その時感じたのはまごうことなき苛立ちだった

別に最前列をとりたければとればいいしオリジナルのふりつけだっていくらでもやればいい

イラつくのはファン内にヒエラルキーを作っているそのメンタルに対してだった

多分に偏見も入っているだろうけど、いわゆる”JPOP”やそれを支持しているトライブから阻害されているまたは飽き飽きし鼻白んでいるニンゲンがV系やその他のちょっとアングラなジャンルに落ち着く傾向があると思うのだが、ああ、最前線の彼女たちは自分たちが見限ったトライブ内権力構造の劣化コピーをやらかしているのだ

なんたる体育会系!みたことのあるクラス風景!

なんでだよ!お前たちは自由になりたくてこういうトライブに来たんだろうが!

…などといった苛立ちはすべて踊り暴れることに変換されたので特に何のトラブルもなかった、あからさまに視線が痛かったがそんなものはここに入ったときから一人だけパジャマなので仕様のないことである(ホンマか?)

視線に完全に気づいているにも関わらず観客たちのど真ん中でひとり踊っているわたしを見て友人はおなかを抱えて笑っていた

 

これが最初で最後のまともなV系カルチャー体験なので今あのトライブがどうなっているかは知らない、友人ともその後あることがきっかけで縁が切れてしまった

 

 

 

 

 

追伸

ラルクを馬鹿にするのにスミスは好きというニンゲンは信用してはいけないと思っています