焦げた後に湿った生活

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「風立ちぬ」感想(と「撃墜魔女ヒミカ」)

原作の感じを想定していたので肩すかしをくらった。

観てすぐの感想は、煮え切らないとしかいいようがなかった。よく出来た萌えポイントは沢山あったけど萌えの元祖みたいな監督だしそれは当然かもしれない。

分かりやすく盛り上げる場面はないし、切ないサナトリウム恋愛モノとか宣伝で強調されている「生きねば」のような強いメッセージ性とかでくくれるような映画ではなかったので、どういう風にとらえていいのか判断に困った。

劇中唯一涙をこらえたシーンは菜穂子が山に帰るところだけだ。

ただ、全編にわたって言い表しようのないさわやかさと呼べるような雰囲気が貫かれている。

 

そのさわやかさの正体は:キャラクターである。

二郎にはヒーローの常である葛藤がまるでない。

自分の周りの、天才型の人間を突き詰めたようなキャラが二郎だと思った。←芸術肌の変わった人って知人友人に一人はいるでしょ?

天才はその才能の代わりに何かを喪失しているのが定番だが、二郎にとって(私の知っている二郎みたいなあの子にとっても)それは社会性だろう。だから世渡り上手っぽい本庄君とは良いコンビといえる。

そして、二郎の周りには彼の障害となる人物はいない。母親は彼の夢をやさしく聞き、妹はなんだかんだいってお兄ちゃん大好きで彼の行動を受け止め世話を焼き続けるし、菜穂子は言わずもがな、最初は意地悪かと思った上司も実はすごくいい人だったパターンである。父親は全くといっていいほど描かれていない。天才には既存のロールモデルなど必要ないからだ。承認しサポートする人間だけが必要とされる。

劇中彼の障害になったのは特高と軍部のおえらいさんくらいだが、ノイズとして処理されている。分かりやすい悪役の役割を与えられたキャラが排除されているので、冒頭で言ったように盛り上がりがないと感じたのだろう。

二郎の作ったゼロ戦で死んでいった者たちに対しても、じつにアッサリとコメントしただけで済ませてしまっている。

 

このように、二郎には葛藤する暗さの要素が全くない。ズレてはいるけれども。ゆえにさわやかな感じを見る者に与える。

しかし、さわやかであること=負の側面を発生させない ことではない。

 

筆頭は菜穂子である。彼女は本来なら少しでも空気のよい場所で療養していなければならないが、愛する夫と一緒にいたいがために自分の身を文字通り削り続ける。

だが、すんなりと二人は彼らの状況を受け入れた(ように見える)。風立ちぬでは殆ど結核の業病っぷりとそれに由来する葛藤が描かれない。結核である必然性がない。ということは、ストーリー中で菜穂子は必ずしも結核でなくてはならないということはなかったのだ。他の病名をいくらでも代入できる。

彼女の役割は、か弱い病者ではなく、ただ単に「二郎を好きで好きでたまらなかった人」なのである。たまたま病気だったので命に関わる困難を体験してしまったが、おそらく病気じゃなかったとしても世間ズレしている二郎と共に生きている限りミニサイズ版の似たような苦労はつきなかっただろう。

つけ加えておくが、彼女の特異性は二郎の犠牲者にとどまらないことだ。美しいものにしか興味のない二郎が自分の美貌だけを愛していることを知っていたから山へと退場していったかわいそうな子ではない。

二郎が菜穂子をどうこう思っている以上に、菜穂子は恋している夫に生きる力が衰えていく姿を見せたくなかった。好きな人に自分の弱いところを見せたくないという言ってしまえばかっこつけの心理は、菜穂子自身のキャラクターにより見事に洗練されて視聴者の心を打つ。それをいいことに二郎は…という見方もできるけれど、やっぱり私は菜穂子の気持ちに共感するほうが強く出る。

新婚初夜のあのシーンも男女問わずグッときた人は多いと思う。菜穂子は風立ちぬのヒロインであり、ハッキリした自我と堂々としたふるまいをもって人々の心をつかむヒーローでもある。実は菜穂子の方が二郎よりも正統派主人公の役割に近いと思う。これ以上戦うと命を落としてしまうのに、それでも戦いにおもむくウルトラセブンみたいな。

 

で、そのような彼女の最後の登場シーン(といえるのか?)で、二郎は謝罪でなく「ありがとう」とズレ丸出しのセリフを言うわけだがそれが二郎が天才たる証拠である。

そこで大方の期待通り謝罪するならば凡人だ。「(僕と付き合うのは大変だったでしょう、)ありがとう」と言ってこそ、承認されて当然という天才なのだ。

 

話を二郎の業に戻す。この映画の感想をぐぐると、未来派にあてはめて批評している人が多い。その辺は北守さんや友達のマル~~がやってたから省く。

二郎は戦争に加担したことについてどう思っているのだろうか?

ここにこの映画を軍国賛美とも反戦映画とも定義しがたい、どっちともとれないような感触がある。

 

映画評論家の町山は、この映画を映画監督たち(もちろん宮崎駿)の自己投影だと分析した。(http://matome.naver.jp/odai/2137713216734546901)

庵野監督がまさかの主役声優になってしまうのも、(悪ノリじゃなくて)必然だったわけだ。プロフェッショナルでいかなる声も演じ切れるぜ、という人でなくどんな環境だろうが好きなことに没頭してしまう変人にやらせたかったのだ。

庵野監督の奥さんである安野モヨコ風立ちぬを観て泣いたらしいが、二郎みたいな人と結婚すると大変なんだから本当に…ということらしい(二郎タイプの人に惚れてしまった友人の苦労も思い出される…)。

また、少し前のNHK宮崎駿がもう小さい子や少年に向けてのお話を作り終えてしまったと話していた。ならば残るは自分語りである。自らの葛藤を風立ちぬで描いたといっていいだろう。

まとめると二郎=宮崎駿、あるいは無数のクリエイターは、内心反戦を願っていようがなんだろうが戦闘機やロボットに対する抗えない快感があり、それをどうすることもできないということである。

(町山はそれを男の性としているが女だってそうだぞ、バッカ。オタク気質なら誰だってそうだろう。パシリム観たとき怪獣博士に一番共感したもの。)

「生きねば」というキャッチコピーの重さと本編の内容とが全然合わないと思ったけど、もしかして自己矛盾を抱えていてもクリエイターとして生きねばということなのだろうか。

 

ちなみに二郎の性別を女に変えて、戦闘機を作る天才から戦闘機で戦う天才に変えると電撃文庫「撃墜魔女ヒミカ」のヒミカになる。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%83%E5%A2%9C%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%83%92%E3%83%9F%E3%82%AB)

全然売れなかったこのライトノベル、結構読み応えあって面白いので是非読んでほしい。

地上の俗事から離れ騎士道精神を持つ者同士で戦うパイロット達の中でも飛びぬけた才能と戦績を持つヒミカ・シンドウ帝国空軍中尉が、記者の質問責めにあうシーンがある。

「中尉はなんのために戦っているんです?」

「さあ」

「祖國のためですか?」

「私の祖國はむなくその悪い侵略國家よ」

「じゃあ、いったい?」

  …

「とりあえず、私は空を飛べればいいの」

 

ヒミカでは風立ちぬよりも強めに舞台となる帝国(いうまでもなく大日本帝国がモデルである)の腐敗具合について言及しているし、ヒミカが無口(これも二郎と一緒)な分、周りにいる人物が国に葛藤する思いをオモテに出している。

結局そのアンビバレンツも戦闘機に乗って闘うこと-相互にフェアな殺しあい-が好きだという欲望にのみこまれているし、腐敗した国への苛立ちから逃れるように一層ヒミカたちは空にあこがれて空を駆けていくのだが。

 

しょうがない。わたしだって現実の殺人はこの世からなくなればいいと願っているけどアサシンになりたいし変身ヒーローになって敵をボコボコにする夢だって捨ててない。ヤクザとは関わりたくないが任侠映画もマフィア映画も面白いと思ってしまう。誰にだって抗えない快感は存在する。

 

あと最後の最後で「ひこうき雲」流すのずるい。いや主題歌だから当たり前なんだけど。泣くでしょ。抗えない。ずるい。