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「ローン・レンジャー」感想 あるいはポスト・コロニアルについて(3)

ジョンとトントは故郷に別れを告げてどこかへ去っていく。そこで記憶は終わる。

舞台が1930年代へと戻り、子どもとトントはお別れの時間になる。

なんと、それまでネイティブアメリカンのステレオタイプなイメージそのものの格好をしていたトントは、ハットにスーツを着て去っていくのだ。

いかにもアメリカ白人っぽい格好をしてふらつきながら歩き出したよぼよぼのトントはどこへ向かったのか?

それはもはや家族も家もなくなった故郷テキサス。スクリーンが真っ暗になるまで、延々と昔の西部の自然のなかを歩き続けるトントだけが映し出される。

故郷を失ったloneなトントは、故郷と呼ぶべき場所がこの世のどこにも存在しないから、アメリカ社会で生きることを選択しただろう。

それでも、先住民といわれる人々やその子孫がいくらアメリカに同化しようと、消えないものが必ずある。亡霊と呼ばれ文字通り亡き者にされたとしても、心の中だけは殺せない。その心の中の風景があのエンドロールだ。

昔日本でも植民地に対する同化政策というものがあった。でも、完全に成功したわけではない。植民地の文化は、さまざまなかたちで現代にも残っている。(私の祖母は同化政策がきつい時代に生きてたはずなのに、死ぬまでずっとコーン茶を飲んでいた)

パンフレットのジョニーデップインタビューでも、現代においてネイティブアメリカンがルーツを保つことについてしっかり語られているので、興味を持った人は読んでほしい。

 

トントに帰るところはないから静かにアメリカの社会に市民として溶け込むだろう、トントの歴史は博物館の見世物としてしか見られないけど、それでもトントの中の記憶の風景は(断絶しても)完全に消えさることはない。

 

勧善懲悪のファンタジーはこんな風に締めくくられる。やりきれない話だ。復讐が終わってもトントに残されたのは複雑な状況でしかない。

監督のゴア・ヴァービンスキーは、「この映画には喪失感がある。トントの感じている喪失感がね。」と述べているが、それはそのまま現代におけるトントのような人々の喪失感につながる。それをどうして克服していくかなどは「ローン・レンジャー」では語られない。

だが、これがポストコロニアルだ。わかりやすく全員が納得できる解決策が存在しない状況そのものがポストコロニアル的なのである。

ローン・レンジャー」はよくできたエンタメ、ファンタジーでありながら、一方で現代のポストコロニアルの重大な問題を描写した作品なのだ。

 

ここからは私の物語である。

 

映画が終わり涙をふきながらスクリーンを出ると、目の前に若いカップルがいて映画の感想を話していた。

「なんか、シュールだったね。最後のアクションはすごかったけど。」

「意味がわかんなかった。」

 

そりゃあまあ、あなたたちには分からなくてもしょうがないわ、と思った。

これは未だポストコロニアルな状況にいる者にひびく物語なのだから。

 

トントも私も、いつまでも「傷ついた少年」のままではいられない。「既に亡霊」かもしれない記憶、喪失感と現状のどうにもならなさを抱えて、それでも歩いていくしかない。

具体的なロールモデルがなくとも、ポストコロニアルに生きる人間は、今いる社会の中で自力で人生を模索していくしかないんだろう。

たまには西部劇でも観ながらね。

 

 

 

 

ところで。

「可愛いのが好きなの~」のあの人はなんだったんでしょう。

基本キャラの役割に無駄がないと思うんだけど、あれだけは何の役回りなのかよくわかんなかった。面白かったけど。

キャヴェンディッシュに恋している、という解釈見てそれっぽいと思ったけど、だからといってトントやジョンに直接影響があるわけでもないのでどういう意図なのかなーと。