焦げた後に湿った生活

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しょーはしパンダからのお題

今回は「言葉」についてです。

割とざっくりしたテーマなのでどんな切り口でやるか迷いましたが、自分が数年かかっても分析できなかった事象を、これこーゆーことなんじゃないのと言ってくれるひとがいるかもしれないという期待を込めて事例をそのまま書いてみようと思います。


それはある知人のことです。知り合って割と長く、幾度となくサシであったこともあるし喋ったこともあるけれども全く理解できない人です。

だからといってきらいなわけではなく好きすぎるくらいですが、その人と言葉を交わして手応えがあったという感覚を感じたことがありません。


ふつう、人と話しているとたとえ本音のセリフでなくても(良くも悪くも)琴線に触れるフレーズがあるものではないでしょうか。


1.シリアスな会話で熱のあるやりとりをする

2.片方は自説をといていてもう片方はふんふん聞いている

3.他愛ない会話やふと漏らしたひとことがたまたまひっかかる

4.何かしらの相談


だいたいこういったパターンがあるかと思いますがその知人と話していてパターンに当てはまった記憶が全くありません。

あらためて思い返すと当たり障りない世間話しかしていない。


共通の友人に聞いてみましたが友人に対してもそんな感じなのでだいたい誰に対してもそうなのだと予想されます。

これまで会った中でこのよーな在り方をする人はその人しかおらず、当初は面食らって自分の言葉が伝わっていないからいつものようなコミュニケーションが出来ないのだと感じ、自分はある言葉を投げることを試しました。


それが何なのかはここでは書きませんが、その言葉を投げかけられた以上、答えずにはいられないものです。無視や沈黙すら回答になる。


しかし、試みは失敗に終わりました。文字通りその言葉はその人を素通りしてしまったのです。

他の人なら必ず響くであろうはずの言葉にすら、良い反応も悪い反応もしめされず、言葉から意味や文脈は消滅してしまいました


推測ですがその人と、自分や他の人とは全く違う言語体系を成しています。その人の母語は日本語です。しかし、母語が同じでもその人の身体に織り成された”言葉をどう形成し、どう使うか”という文化は全然違います。


多分、あの時投げた言葉を意味のあるものとして響かせるにはきっとその人の言語コードに合わせて使わなければならなかったのですが、何年経ってもこの言葉はこういう時にこうやって放てば届く、といった分析がひとつも出来ていません。世間話しかしていないのだから当たり前といえば当たり前です。


その人からは失言を聞いたことがありません。言葉によって傷つけられたこともないけど、何か大事なものを交わせたことも多分ない(相手はあるかもしれないけどそれを認識できない)。

何年もそんな感じでうまくやってるならこれはこれで健全な付き合いなのか?


全ては出来るか出来ないかも分からぬ言葉の分析しだい。