焦げた後に湿った生活

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家出応援アクティヴィティ「女のいない女の家」休止について

家出応援アクティヴィティ「女のいない女の家」(以下、女の家)は一旦止める。

ドネーションしてくださった方もいるので理由と経緯を記す。

女の家の来訪者で、それ以後関わり続けてきた人(以下、A)に、わたしのトラウマがフラッシュバックする状況を作られるという被害を受けた。
Aはわたしがトラウマになったこともその事情も知っているので、当然わたしはAに怒った。
具体的にAの行動のうち何がトラウマに抵触したのか、なぜ彼女に怒っているのか簡潔に書いた。

Aは「w」と返してきた。
この返信と、過去の行動パターンから、1対1の話し合いを出来る相手ではないと判断した。

余談だが、モラハラ等の被害にあったら加害者とはサシで話しないほうがよい。第三者のいる場所での話を薦める。人の目があれば、加害者の論理破綻した物言いや、人格批判・罵倒にもっていかれることを阻止できるからだ。

…というわけで、Aには第三者のいるところでしか話はしないと伝えたが、ここでAが身を寄せていた住み開き先を運営している知人女性Bからも二次被害を被った。

共通の友人Xがわたしといる時、たまたまXの携帯にAから着信があった。Xが話をしてみると言って出たが、電話中にBが「A!謝らなくていい!」と言っているのが聞こえた。無関係なひとが、加害者を擁護するために介入してきたのだ。

わたしとBは既知であり、フェミニストとして一緒になにかやろうとしたことがあったが、後述の理由により距離を置いた。
Aがわたしを含む身近な人に無茶を言ってふりまわす試し行動をしていたことがあって、わたしは彼女に怒ったが、Bに「シェアスペースにはコミュニケーションにテクニックの要るひとたちが集まるとわかってて彼らに文句をいうのは、砂漠で水がないと怒ってるのと同じだ」と批判された。
「砂漠」で水分奪ってる側を擁護するひととは相容れないから、「もう会いたくない」と連絡した。
他人を傷つけても謝らなくていいと思ってるひとのことを許容できない。ダメなものはダメだ。事情を抱えているからといって他人を傷つけていい理由にはならない。もしやらかしてしまったら、非を認めて謝った先にしか対等な人間同士の関係は築けない。差別されたからといって自分も差別していいことにはならないのと同じだ。そのひとが社会のre-buildをつくりだしていることにも素直に賛同できなくなった。
うまく説明できないが、動物をポコポコ殴りながら「いのちをだいじに」とスローガン掲げるようなものではないのか。

去年くらいから、少しずつ感じていた、シェアスペースの「傷ついたひとたち、生きづらいひとたちが身近な他者を傷つける」問題点が無視できないほど自分の中で大きくなった。
シェアスペースの存在意義も、正直いってわからなくなりつつある。

生きづらいひとの受け皿になること自体にはあまり興味がない。生きづらさを緩和し、自立できる状況をつくりたいのだ。女の家も、気分転換での利用のほか、抱えて苦しんでいることがあるならば、支援ポイントまでのアクセスを補助したい、という目標があった。が、現状と理想の乖離を埋めるためになにが必要なのか、リスクヘッジも含めて、練り直すと決めた。

わたしは草の根フェミニストとして、ミソジニーに抗ってきた。
AもBもそこに賛同し、それぞれ「フェミニストとしてがんばろう」という旨のメッセージをくれたこともある。
社会運動などオルタナティブなことをする界隈でミソジニーや性暴力の問題が無視されがちなことに憤怒し、同じおもいを抱えるひとと共闘しようとした。
しかし、共闘するはずのおんなたちは身近な他者への加害を容認した。
われわれが批判してきたクソミソ(クソなミソジニー野郎)となにがちがうのか。彼らが自己の問題から逃避し暴力をふるって開き直ることに怒ってきたのに、批判するおんなにもその構造はあったと今更ながら気づいた。
大変なひとが多い場所だから暴力を受ける覚悟をしなければならないという言説をわたしは許容しない。そんな言説がまかりとおるところに行く価値、あるのか。

現在、可視化された新しい問題に対して、うまく言葉をつむげない。わたしにはこの憤りやシラケや失望を昇華して、新しい論理を組み立てる時間が必要だ。

なので、一旦試みから撤退する。再開は未定だ。やるとしても、女の家のコンセプトはともかく、よりよいストラテジーとかアプローチとかを手に入れてからだ。ミソジニーの問題だと思っていたことが、もっと広範な問題だということがわかったから、わたしは思考して仕切り直す。