はじめに一言: 男尊女卑は明確に人間を損なう。
よって是正されるべきであり、もしも読者が男尊女卑を目撃したならば各々で、時に連帯をしてただちに処置していただきたい。人間を損なうと判明しているものを放置するのは暴力への加担である。
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男尊女卑とは差別である。
差別は個人もしくは特定の属性に対するストレッサーとなり、人間の生産性を低下させる。
自分自身が被害に遭わずとも差別の現場を目撃しただけでも同様にストレスとなり生産性を低下させることがある。これは環境型ハラスメントとされる。
(関連する研究の引用は面倒なのでしない。気になれば調べていただくかjahlwlの過去ツイートから検索してください)
男尊女卑という差別を保持しながらひとつのシステムとして稼働しているのが家父長制である。一般的にいってシステムにはメリットもデメリットもある。男尊女卑を含むことが前提のシステムである以上家父長制においてよりデメリットを受けやすいのは女性であるから、当記事では、男尊女卑と家父長制のデメリットを受け続けた女性がどうなるのか? を記述する。
先に述べたとおり、差別を受けると人間はストレスを感じる。差別が前提のシステム内にいるかぎり、女性はストレスを受けてしまう可能性がたえまなく続く。
ではシステムから逃れればいいではないかという方もいるかもしれないが、それはあまりにも実情を軽視した無責任な発言と言わざるを得ない。理由は以下。
・すべての人間は生まれる場所を選べない。多くの人は労働可能な年齢になるまで、あるいは最終学歴の終わりまで家族(イエ)に援助をしてもらわなければ生活することがむずかしく、その間は家族(イエ)の影響から逃れることは実質不可能。主婦であれば経済上の理由から、さらに長期間影響下に置かれるであろう。
・上記の期間、家族(イエ)と学校以外から得られる情報は少ない。家族(イエ)と学校が子どもに、差別についてじゅうぶんに教えているとは言いがたい。他の情報源はヒット音楽と本屋の平積みとまとめサイト程度で、これらのインプットのみで男尊女卑から逃れる選択肢とそのために必要な手札を揃えるのを考えつくのは、きわめてまれだ。
・人間は成功体験がないと行動を起こすことがむずかしい。観測範囲内でロールモデルになる人間がいないと、自分もああしようとは思えないものだ。
雑多に書いたが、雑に挙げただけでもこのありさまである。
一旦システム内に生まれてシステムの構成員になると、システムから逃れることは困難になる。逃れることが出来たとしても、相応のコストを払うかもしれない。私は払った。金銭的にもだし、何かあった際に家を頼れないというのは精神的にもセーフティネットが少ないという点でもよろしくない。よろしくはなかったが、それ以上に差別によるストレスで発生する損害がはなはだしいため逃亡した。運よくこれまで生きてはこれているが、死んでいてもなんらおかしくはない。システムから逃れることに対してシステムの構成員から圧がかけられる場合も多々あるため、これに係るストレスも軽視はできない。
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男尊女卑や家父長制から逃れるコストは高い、という話をしてきたが、じゃあシステム内に居ざるを得ないならどうなるのかを書く。
結論から言うと防衛機制が発動し同じ差別に遭った者を加害することがよくある。
防衛機制とは精神分析の分野で使われる用語で、超絶簡素にまとめると受け入れがたい、認めたくないことを、別の方法でなんとかしよーとすることである。いちばんわかりやすいのが昇華か。仕事や芸術などに打ちこんで忘れようというやつね。他にも、子どもがえりする退行や「すっぱい葡萄」の合理化などがある。
長期間男尊女卑にさらされてきた+社会の構造(社会通念)上逃げ出すことを許されなかった人間がやりがちなのは、自分が親世代になったとき、自身が苦しんできたはずの男尊女卑/家父長制に反抗する娘を許せず加害してしまう、だ。
私の親族の例を挙げる。詳細は間接霊呪 - 焦げた後に湿った生活と影の話 - 焦げた後に湿った生活をご参照。
ケース① 娘の前で、娘にセクシュアル・ハラスメントをしてきた親族の名を、何度も話す。娘本人が聞くことを拒否しているにもかかわらず。
ケース② 娘が行動範囲を広げたり、新しい経験をしたりすることに対して邪魔をする。
ケース③ 昔は正義感が強くイヤなことはイヤと言える毅然とした人物だったが、自分の娘が大学進学したとたんに、「勉強ばかりしていて嫁にも行けない」など古臭いジェンダー観によるイヤミを言うようになった。
これらのケースで共通するのは、加害側が過去に自由意思による選択をさせてもらえず、イエの都合で進学や結婚が決められてしまっているという点だ。
私の母も上のケースの加害側なのだが、彼女からは何度も「進学したかったのに中卒にされた」「結婚を断ることは許されなかった」と聞いている。不本意だったのに、自分の意思など一切考慮してもらえず、誰からも助けてもらえなかったのだ。特に強制的に中卒にさせられたというのは彼女にとって相当の傷になっている。
ケース①は母と私の話だ。アンチ男尊女卑、アンチ家父長制のかたまりみたいな女こと私が、親族の年長の男性に逆らい謝罪を要求し、セクハラを目の前にしながら何もしなかった周りの人間も含めて批判するのが、母は許せない。自分には許されなかったから。
現代は多少マシだが、昭和の時代に貧乏な家に生まれた女性に与えられる選択肢はとても少ないか、そもそも自由意志を持つことを許してもらえない。
ここまで書いてきて自分でかなしくなってしまうが、自由意思をはく奪されトラウマを抱えた人間に「自分には許されなかった自由をあなたの子どもにあげなさい」とつきつけるのは、なんというかあんまり優しいことではないな。まあ、あげなさいよって言うしかないんだが。
差別され自由を奪われた女性は、親になったあと、自身が言われて嫌だったことを娘に言ってしまったり、自身の時代より格段に女性が動きやすくなっていることに対して嫉妬してしまったりすることがある。自分が体験したのと同じものを体験させようとするパワーがはたらき、娘の人生や精神に干渉しがちである。
これには複数の防衛機制がはたらいていると思うが、ありがちなのは合理化か抑圧ではないか。理不尽な目にあいつつも反撃・闘争・逃走などが一切許容されない状況であれば、防衛機制を発動させしょうがないと思い込むかなかったことにするのが考えられるルートだろう。
前述したように主婦であれば経済的な理由から長期的に男尊女卑のデメリットを受けやすい。結婚したあとも家父長制の構成員として在るしかない。防衛機制もその分、長いことかけて巧妙に作られている。しかし、とりあえず眼前からどけたとしても、許せなさというものは常に理不尽な目にあわされた者の中で表出する瞬間を待ち構えている。
相対的に昔よりは女性差別がマシになった社会で育った下の世代が、この家のこういう風習、ヘン! とか言い出して真正面から男尊女卑と家父長制にメンチを切るようになった時、防衛機制は危機を迎える。娘がこりかたまったジェンダー観から離れた生き方をするとか、昔は女性がやらなければいけないとされていたことを放棄したとか、そういった事象を親が目の当たりにするとどうなるか。
自我を守るため、娘をおさえつけ、攻撃する。
非常にかなしいことだが、加害する本人にもどうしようもない、さまざまな要因により理不尽を我慢しなければいけなかった人が、同じ理不尽に対して拒否を表明する人を見た場合、「今までの私の忍耐はなんだったのか」と感じてしまうのは自然なことである。
これを回避する唯一の方法は自分が男尊女卑/家父長制で苦しんだこと、恨みや怒り、悲しみと言った負の感情をみとめて受け入れることからはじまるのだが、防衛機制とはそもそも自我を守るためのものなので、解除するには苦痛が伴う。長年かけて構築されていることもあるため、いちどきにおやめと言ってもせんなしで、自覚を持つことすらむずかしいときもある。
でも、やはり自分が差別によって苦しんできたならば、同じ苦しみを人に体験させてはいけないのだ。
冒頭に記したが、男尊女卑は明確に人間を損なう。トラウマレベルの心理的ダメージを与え人間を苦しめ続けることがある。本人の自覚なきままに、下の世代にも苦しみを受け継がせてしまうことだってある。
どうかこれを読んだ方、どうせ人間や社会はそうそう変わらない式の諦めをせずに、男尊女卑を見かけたら「おやめ!」と一言を口に出す勇気を持ってほしい。
誰にも助けてもらえないのって絶望なんすけど、逆に言えばあなたが一言分介入したことで誰かの追う傷がトラウマレベルじゃなくなるかもしれない。少なくとも防衛機制が登場する機会はぐっと減るでしょう。
短いが、女性差別へ「おやめ!」を告げ介入することについて綴った記事はこちら→
音楽に携わっている人は女性差別をやめさせようというシンプルな記事 - 焦げた後に湿った生活
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心理学とひとくちにいってもいろいろな切り口や派閥がある。これまでの記事を読んでくださった方はお分かりであろうが、私は主にカール・ユングの理論を好きになり勉強した。(注: ただし心理学・精神病理学を専攻したわけではなく、専門家でもない)
何回か「フロイトやユングの古典的な精神分析は時代遅れ」と言われたことがあるが、「いやいやひとくちにそう斬って捨てられるものでもないだろう」と感じたので当記事を投稿したという側面がある。なお知っている精神科医にたずねてみたら、
- 時代遅れという言い方は必ずしも妥当ではなく、精神分析は便利すぎて治療においては具体性を欠く*といったところか。治療の主流が行動療法になっているので時代遅れと言われるのだろう。僕はたくさん彼らから学んだよ。
とのことである。
*たとえば防衛機制という切り口で行動の説明をできても、問題点がわかったところで治療をしなければ意味が薄い。そのため精神分析は具体的な治療方法としては決定打がない、という意であると私は捉えた。