焦げた後に湿った生活

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baby zombies

三月渋谷区某所で、私は泣く。

 

誕生日の三日後の早朝に「おめでとう」の電話が来たり、こっちがバッチリ準備オッケー、な時に向こうがクラブで酔い潰れていたりで全然会えてなかったんだけど、なんかタイミングがあって会いに行った。

そいつを想起する時いつも「母性」という二文字が脳裏にうかぶ、私はフェミニストであり、また「母性」を否定する者であるからしてこの二文字は不適切なのだが、代替可能な表現がみつからないから今のところ心の中をそのままにしている。

 

なんだか袖をひっぱって、「今日こんなことがあったの聞いてー」と言いたくなる人だ。実際話すことなんかないのに。

ちなみにそいつがセルフプロデュースしているイメージと私が彼に持つイメージは全然異なる。

 

私はいつも率直に用件を言う方なので、そいつにも「今参っててあんたの声ききたい、なんか安心するから」とtypeすると、用事と用事の間にクリティカルに時間を空けることができた。

 

ここまでやっても、いきなり甘えるということができない。詳細は端折るけれども一定の儀式があって、そうしてようやく私は幼児退行できる。

仰向けになって手脚をめちゃくちゃに動かして、「ワーン」と叫ぶ。

「イヤー」と言う。(具体的に気に入らないことがあるわけではない)

「行きたくないー」と言う。(具体的にイヤな場所があるわけではない)

ヤダー!

…何が?

 

同じ幼児退行でも、結婚していた時の、死の方向に向かう自己を守るための幼児退行と違って、ふだんとは別のペルソナが出てきた感じはしない。

こんな面があったんだなー、て感じ。

占い師が「あなたは自分をもっと愛してあげて」と言っててピンとこなかったのだが、どうやら赤ちゃんになることを求めているらしい。表面はともかく、内部では。

しかし、赤ちゃんになりたい欲求をみたすもの、そんなもんどうやって自分の中からひねりだすのかね?

 

わたしがあーんと泣いても友達は笑わない。

殊更「ママ」にもならない。

ただふつうに、「赤ちゃん」になった年上の人間と会話するだけ。

 

煙草ちょうだい、と言われる。

禁煙でもして持ち歩いてないんか?と聞くと、3週間公演詰めで喉がやられたから買い置きしていなかったという。

 

「おやおや、それならほんまは私が働き詰めの人をマッサージとかせんといかんのにねえ。甘えてばっかでわるいねえ」

「働いてるっていうのかな?遊びと区別がつかん」

疲れていて世界が動いているならそれは働いている、といえる。

「東京の仕事はどうや」

「楽しいよ?」

「音楽は?」

「10代20代の時にかきたかったことはほぼかいてもうたんよ、だから30代になった自分のためにかこうと思う」

「そうか。オレは歌うのも楽器弾くのも人と会って喋るのも嫌いや」

「じゃあなんで×××は、やってるん?」

「なんでやろなあ、」

 

その次の言葉をきちんと耳にしておくべきだったかもしれない。

でも、赤ちゃんの耳は不完全で、不明瞭なノイズにしか聞こえなかった。

 

次の日私は夢を見た。

夏に海辺の方面へ旅行に行って、泊まったホテルがゾンビ・パニックになり、同行者も全員ゾンビになる夢だ。

 

なんとかホテルを抜け出して走り、子連れ同士で車に乗っている女の人2人に乗せてもらい、「あ、これって悪魔のいけにえと同じラストじゃん」と思った。

思った次の瞬間、私は運転手の女性を食べてしまった。

 

(あーあー、ゾンビに触れないようにしてたのになあ)

 

この後残った女性も赤ん坊たちも食べてしまうだろう。

ゾンビは生命力の象徴だとどこかで耳にした気がするが、この場合一体何の表象なのだろう。

 

同じ時刻、東京のどこかで、例の友達が反戦の演説をしていた。

演説をしていてもライブをしていても、私が本気で「助けて」と言ったら、多分きてくれる…気がする。

 

#日記文学