焦げた後に湿った生活

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闘病記15

【今日の病状】

出社して社食を食う。魚と野菜。

どうしてオンラインで閲覧できるメニューと実際に食堂にあるものが違うんだろうか。

コロナ禍でどのくらい人が来るか読みにくいからなのだろうが、メニュー通りにすすめられないのなら、オンラインのメニューやめたらいいんだ。

 

社食はバランスのいい食事が安価で食べられるし味も不味くないので好き。

以前、完全リモートが終わって久々に食堂へ行った時、「食べるのすごく楽しみにしてた」と言ったら、食堂のおじさんが「うれしい!ありがとうございます!」とマジで喜んでいた。

 

思ったこと(褒め言葉)はすぐ口に出すべきだ。

本当に、好きな人のいいところって口に出す機会って殆どない。自分のことを好いてくれている人も、ビョーキになってからいいところを言ってくれるようになった。

私のいいところは肯定しつづける力でいなくならないところで(お前しか継続的に連絡とってへん友達めっちゃおるよなってよく言われる)、今からいなくなりそうになってるから師匠格が泣きそうになってる。

 

【過去】

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/30963

「河内のウータン」を描き終わった日、レフトアイの命日だった。

もしルーシーの本名がリサだったらねーちゃんはウータンではなくレフトアイと名付けていただろう。

で、ウータン・クランのRZAが「過去を振り返ることは、祈りを捧げるよりも大切」だと言う。死ぬほど正しい。

 

ヒトは自分のためには祈れない。もし祈ってると思ってるヤツがいたらただの勘違いだ。

私は私のことを祈れないから呪いについて考えた。表現者になることの呪い。

ラブな師匠格が「自分が表現を続けるのは、誰かの人生を狂わせるため」と言った。

昨日書いたこととほぼ同じだろうけど、師匠格の発言を少し解説すると、世界を良くするためには構成員を増やさないとだめで、個人が出来る範疇で継続は力なり、をやっていかないといけない。(私のスタイルは継続は力なりというより一日一殺に近いけど)

啓蒙、といっていいのかもしれないけど、啓蒙と表現は似て非なる何か。

 

おっしょーへ、ちゃんと狂いましたからあの物語を描けました。

ビョーキになって過去を振り返ったら、あの眼が真っ先に脳裏に浮かんだ。

あのマンガの「5秒」のシーンはラブレターです。

あのマンガは「私小説なんですか」とよく聞かれるけど実は全然そうじゃない。キャラクターはモデルはいるにしろテンプレートなデフォルメをしている。

「5秒」のところだけが完全なる事実。

ただちゃんと眼の描写をできなかったから描き直す、、

 

【逆転】

ヤ◯◯シ会って絶対近々再流行するよな・という予感を持っていた。

そしたらホントに似たようなモンが流行りかけている、と雨宮純の記事で読んだ。

ああいうのにひっかかるのは一発逆転の思惑持ってるヤツ。いきなりフリーランスになりたがったり自己啓発にハマったりするヤツ。

 

あと「何者にもなれない」と悩んでる人か。

結構、周りにいたんだよな。(だからマンガでも煩悩くんの部屋にあの会のチラシを置いた)

何者かになるのってそんなに大事なことなの?と思ってしまうのは表現者の傲慢かもしれないが、例えば仕事をきちんとやるとか、友達を大事にするとか、倫理観を保って実行する(実行までいかないと意味ない)とか、そーゆーのやってたらそれで悩むことなくない?

 

勝手に評価のほうがついてくるじゃん。気がついたら5年10年経ってて、何者かになってたみたいな。やることやってたらフォロワーも現れる、みたいな。

 

【健康】

マンガ描き始めると夢中になって睡眠時間削れた。ルーシーありがとう。ラブレターもかけたし仕事もバリバリ。

 

今日は早く寝ようって毎日思うんだけど絶対今日も夢中になって描いてしまいそして少し元気になる。

 

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