焦げた後に湿った生活

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闘病記35/映画「チロンヌプカムイ イオマンテ」を観たらなんかすごいことになった/暴力の仕方論

★本記事には映画「チロンヌプカムイ イオマンテ」のネタバレが盛大に含まれています★

 

【今日の病状】

骨折してからバイオリズムが低下した。

ぶつけた薬指はぐるぐる巻きに固定されているのだが、悪いモンがそこに滞留している気がする。

私が普段裸足なのはエネルギイを足先から放出するためなんだなきっと。

 

ひょこひょこと買い出しに行くと体力をかなり消費する。

もともとすぐにカロリーを消費してしまい消費しちゃうと音もなく一気に身体が動かなくなる。たとえば会社だからって人の目を気にしている余裕はない。会議前は軽く糖分をとる。そうじゃないと会議中に筆記していても腕が震えて何も書けなくなるからだ。

買い出しに行く前は食べ物をひとくち食べてから出るんだけど、おとといの買い出しでは買い物の途中でガス欠を起こしてしまい帰りは倒れそうだった。

身体が不自由になるとちょっとしたことでも大変なんだな、と思った。

 

肉が足りない!と本能的に感じて美味しいシュウマイを買った。私はこうでもしないと肉、特に豚肉を食べられない。

551と同じくらい崎陽軒のシュウマイは美味い。小さめにあつらえておりひょいひょい食べられて味付けもちょうどいい。酢やからしをつける人もいるのだろうが私は何もつけない。

 

バイオリズムが変化したのでいつまでも眠る気にならないしへんに夜更かししてしまう。身体は良くないのに精神だけ躁、みたいな…

相変わらず胃もよくない。

 

骨折してから色んな人に「痛いでしょう」と言われるが痛くはないんだただただ調子が悪い。

 

イオマンテ

ここから「チロンヌプカムイ イオマンテ」のネタバレだぞ!

 

こんな調子の悪い時によく知らない人に会ったっていいことはない。

 

誘われたので映画「チロンヌプカムイ イオマンテ」を観に行った。奢りで。

www.iomantefilm.com

 

チロンヌプカムイ イオマンテの大筋は大切に育てたキツネを、きたるべき時がきたら殺して神の国に送り返す、というものである。その儀式の映像がメインのドキュメンタリー映画だ。

 

開始直後はなんともなかったが、儀式の音楽や踊りが少しずつ出てきたところから私はおかしくなった。

儀式で用いる音楽を聴いているとだんだんと意識が薄れていく。

薄れていくというか、音楽がアンカーになってひとりの人間としての自我が弱まらせられ、どんどんもっと広いものに同期・統合されていく感じだ。

 

ひとりで部屋で観ているのならば停止ボタンを押せばいいのだが、映画館、それも奢りで…というシチュエーションもあって私は観るのをやめられなかった。

適当に理由をつけて抜け出そうにも言い訳を考える思考能力が既に奪われており観続けた。

音楽、そして踊りは呪文のように私に魔法をかけ脚に力が入らないわ意識はなんか違うもんに引っ張られていくわで、抵抗する術はない。

 

音楽と踊りが盛り上がっていくと共に私の意識はよくない方向に行っていた。生贄方面に。

儀式が最高潮に達する頃つまりキツネが殺される直前で、「あ、今から死ぬわ」と認識したら吐き気がして我慢できずにトイレへ駆け込んだ。

 

トイレから戻ったらキツネは既に皮を剥がされ身と分離されていた。

あのまま観ていたらどうなったんだろう。

 

【祭礼の音楽】

映画が終わったあといやほんとうに見苦しいところをお見せしてすみませんでしたと相手に謝ったが多分もう相手は私に興味を失っただろう。初対面で吐く女、私が男ならちょっと距離を置くと思う。

 

一方で、一種のトランス体験、トリップをした人間の感想には興味があるようだった。

「あの音楽はずっと同じリズムを反復していました。踊りもそうです。決まった型を続けていく中で深い陶酔といっていいのか…トリップがおとずれる。その時<私>の意識はありません」

「前もこういうことがあったんですか?」

「最近聴覚過敏の気はあるけど…こんなことは殆どありません。今思い出しましたが一度だけ、高校生の頃音楽を聴いてフワっとトリップしたことはありました。その音楽は民族音楽ではないけれど、同じようにリズムが反復しているものでした」

「僕はそういうことが全然ないから、体験できる人はうらやましいですよ」

「まあ確かに稀有な体験かもしれないですけど、生贄になる気分はあまりよくないです。…思うに世界中の、祭礼用の音楽というのは反復がグルーヴになっている。世界中どこでもだいたいそうです。反復を繰り返すことで人ならざるものと人との距離を近くしてるんじゃないでしょうか」

「確かに映画でやっていた踊りもそうでしたね。反復がキーなのか。もともと音楽に引っ張られやすい体質なんですか?」

「いえ…多分映画館だと上下左右から音が来る、というのが大きいと思います。そういえばひいおばあさんがシャーマンでした。遺伝的にいえば引っ張られやすいのかな。昔はそういう仕事のニーズがちゃんとあってそれで家族を食わせていたみたいですよ」

「それは興味深い。キツネになった気分はどうでしたか?」

「fuckです」

どんな生き物も殺されるとなったらものすごく抵抗する。

 

私はとりたてて極まった動物愛護主義者ではないし、アイヌ文化についてひとこと物申す気もない。

キツネの意識に引っ張られたのだって、100%同化したわけじゃなくて、儀式ではこういうことをするという知識がトリガーのひとつになって「キツネらしい」状態であっただろう。

でもキツネになった感想はどうかって訊かれたら、「殺された後どんな理屈を並べられても殺されるのはいい気分じゃない」としか答えようがない。

軽んじられるよりは尊ばれる方がマシだとしても。

 

ドキュメンタリーとしてはかなりパワー系の映画で、終わり方がばっさりだったのが良かった。

ゴールデンカムイはマンガなのにマンガらしく都合の良い描写を読者がほんとうだと信じて困る、という話が先日議論になったが、私もマンガは都合よく語るという認識を持てない人は軽々しくアイヌ文化は守れられたとか語らない方がいいと考えている。

あの話で最後アシリパが願って達成したとされることは、現実には殆ど廃墟であった。

映画に出てきた美幌峠のアイヌコタンはたった35年前に既に風前のともしびになっていて、2021年時点ではなにもなかった。

 

「文化を継ぎますか?」と訊かれた子どもたちが、アッサリと否定しそのまま映画は終わった。リアルでいいと思う。

 

【暴力の仕方】

「なぜ無差別殺傷犯は男性ばかりなのか」加害者家族の支援者が語る"彼らの共通点"(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

 

なんともズレた記事だった。

プレジデントオンラインもロクなこと書きませんねえ。ビジネスのことだけ書いてたらよろしねん。

 

無差別殺傷で、女の犯人っていないでしょう という一文があった。

これに関しての答えは明確である。女性は他害することを幼い頃から抑圧されているからである。

暴力の仕方を彼女らは知らない。男はなんやかんや幼児の頃から「やんちゃ」だの「ダンスィ」だので片付けられている。

私が7才だった時、クラスメイトの男子に首を絞められた。スカートめくりが常習化しても大人が誰も叱らなかったところ暴力の行先はついに直接的に命に関わるところにまで行きついた。それでも大人は「暴力」として扱わなかった。その出来事は、女子をからかうのはやめなさいの一言で始末されたのだった。

 

「無差別殺傷で、女の犯人ってほとんどいないでしょう。男ですよね、やっぱり。劣等感とか、勝ち負けとかのヒエラルキーがはっきりするのが男のような気がしますね」

と記事内で書かれていたが、劣等感や勝ち負けのヒエラルキーは女もたえずさらされている。

教育虐待で親をとうとう殺害してしまった女性のあの同情すべき事件を忘れてしまったのだろうか。

社会からさらされる理不尽さでいえば、女に対する理不尽さは相当ひどい。記事内のリクツでいえば、医大の受験で不当に点数を減らされ人生をめちゃくちゃにされた女性たちはとっくに男どもを殺害していてもおかしくないのに、彼女たちは誰もまだ殺していない。

それに、外見面でいえば男の比較にならないほどヒエラルキーに支配されている。

 

記事の筆者は、受けるプレッシャーの質の違いは男女で差があると言いたいようだ。

しかし受けるプレッシャーの質で犯人の数に格差があるというのなら、貧乏人とエリートでの差や、或いはすがれる宗教の有り無しでも差が生じるはずである。

類似の事例として、ほんの最近まで「ヘイトスピーチをするのは低年収の人」という言説が信じられていた。しかし、調査の結果、年収は差別主義者とは相関関係がなかった。

ほんとうに低年収のうっぷん晴らしでヘイトスピーチをしているというのであれば、その前に宗教が彼らの受け皿になっているはずである。特に関西では伝統的に貧乏の受け皿として宗教が強かったのだし。

 

受けるプレッシャーの質などに関係なく、他人を害するかどうかは己がどうふるまうことを許されているかの、ビヘイビアの問題である。

昔、「男のメンヘラはいないのか」という質問を受けた。同じメンヘラでも女子は自傷にいきがちだが、男は他害にいく傾向があるので男のメンヘラは視認しにくい、と答えた。

ヤリチンなどに多い。ヤリチンはほぼ他害の一種だが、それをしていると健康的な方面にはいかないのがわかってすらおらないヤリチンがまあまあいる。女と寝ること、搾取することが一種のステータスになっているからインチキ自己肯定を一瞬出来る。彼らはマッチを擦るかのようにインチキ自己肯定を次々していく。

当然マトモな情緒は身につかず、彼らに進言する人間はいないかいても離れていく。そして狭い同類の人間関係の中でドツボっていき、最終的に大きな痛手を他人に負わせ自分も負うということになって初めてヤバいかもしれないということに気づく。

 

これは一例だが、「ヤリチン」というワード自体が己がどうふるまうことを許容されているかのビヘイビアが型になったものだ。

実質が精神的被害から生じた他害であったとしても(ヤリチンの一定数は人生で辛い目にあっている)、女と寝ることは許されたビヘイビアであるため彼らはそうそうそのようなふるまいを止めない。

(一応はっきり言っておくが「ヤリチン」とひとことにいっても、望まない行為を強いる性的暴力の加害者が何割か混じっているので私はこのワードは随分砂糖菓子で粉飾された言葉だと考えている)

 

他者を害する行為をやる、というのは積み重なった文化、ふるまいのなれのはてである。

生きづらさなんて誰しも持っている。

ビヘイビアの在り方とプレッシャーというのは、おおむね同じところを源流にしているんだけど、知識がなかったり日々がキツくて視野狭窄になってたりすると余程カンが優れていない限り気づいて「プレッシャー」から逃げることは出来ない。

そんで己が脅威の側に取り込まれると、無差別殺傷の犯人になったりそこまでいかずとも他害をするようになる。

 

断言してもいいが、プレッシャーは男女で差があるなどと言ってるうちは他害はなくならない。