焦げた後に湿った生活

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圧倒的無成長

クジラックスの「ろりともだち」を再読した。おもしろいけどだからなんやねんという。この話は読者に共感をあたえても救いはもたらさない。 一時の連帯と自己肯定感をもたらすものは暴力でありそれは長続きしない。新井英樹のワールドイズマインを読んだ時と同じがっかり感である。

自身の欲望をコントロールしないことが純粋で自由だという言説には飽き飽きしているがまだマンガの世界では活きているのか。「ろりともだち」でもレイプ犯の2人は自殺するし、結局のところ、他の道を探すしかない。

人間は誰しもマイナスのエネルギーとどう折り合いをつけていくかという問題から逃れられないと思うが、「ろりともだち」も「ワールドイズマイン」もマイナスのエネルギーがあります、だからそれをとりあえず出しますというだけの話だ、それから先をどうするかではなく。作品自体のおもしろさとは関係なくここにモヤる。

 

 

マイナスのエネルギーとどう折り合いをつけるかという問題は、少し前に話題になったディズニーの「アナと雪の女王」にも登場した。

エルサは持って生まれた冷凍能力をもてあまし、生まれて初めて全力を出し美しい氷の城を作った時は独りだった。その後ストーリーの最後で皆の元へ戻った時には能力の使い方が矮小化されていた点について、「抑圧されていない状態ではあれだけ美しいものを作れるのに、皆と生きるにはちっぽけなことにしか能力を発揮してはいけないのか」とコメントした人を見たことがある。

 

それはそれで着眼点だと思うが(特に女児はいいこちゃん幻想をおしつけられ自分の能力をフルに使わせてもらえない抑圧があるから)、あのラストのキモはエルサが笑顔でいるところだ。エルサが自分をコントロールでき、無理なく家族であるアナや他の人と共に居られるようになったことだ。

それは家族といえどもキャラの違うアナと向き合い葛藤したことで得られたものである。

 

「ろりともだち」にはそれがない。主人公は暴力でつながった一時の連帯しかなく、話す言葉はほとんどモノローグである。無論レイプする女児とのコミュニケーションはない。

「ワールドイズマイン」のモンちゃんはマリアには心を開いたが、それは母を求める幼児そのものであり、他者との対峙ではありえない。

 

 

なんか、エヴァ批評で散々言われてたことをまだやってるんだなあ…という状況に厭いている。いつまでも大久保清やってらんないよなあ

その先をどうするんだ、それが知りたいんだ、とここ数年ずっと思っています…