ディスコ・イズ・デッド

この間気になるツイートをみた。

正直にいうと誰がツイートしたものか覚えていないし、さっきこの記事を書くにあたってそのツイートをRTしている筈の某ラッパーの発言をさかのぼったけど、該当ツイは見当たらなかった。

なので正確に引用できないことを心苦しく思うが、その内容はおおむねこういうものだ。

「(不特定多数のクラバー女子を指し)お前たちのやっていること、オシャレ、アップした写真、などはすべて無意味」

といったようなことだった。

 

さて、これはどういうことだ?

クラバー女子の対になるべき存在はクラバー男子である。

で、これを書いていた(はずの)人もクラブへ繰り出し踊ったりフロアを沸かしていたりしているはずの男性。

クラバー女子のやっていることが無意味ならば、相対的にクラブに存在する彼女たち以外のもの=クラバー男子のやっていることは有意義として意味づけられる。

 

…などと考えていたところ、追い討ちで今度は知人DJと客が「ブスはニューエラをかぶるな」と発言していた。「だったら童貞とコミュ障はクラブにくんなよ」くらい言いそうになってしまうがそれは口に出したくない。売り言葉に買い言葉でつい反撃してしまいそうになったがそんなこと考えてない。クラブは誰がどんな風に楽しんでもいい自由な場所なのだ。

しかし、これは糾弾したい。頭で思っているのとオモテに出すのでは責任がまるで違う。理想をいえば人をきずつけるような考えが浮かばないのが一番だが、たとえ思っていても倫理観と照し合わせてみて不適当ならば口に出さないのがニンゲンのモラルである。

 カンタンに女の子たちをおとしめる言説を誰でも見れる/皆がいるところにポストできる風潮って一体何なんだろう?

 

数年前、毎月クラブで遊んでいた。

家族仲は破滅、学校の勉強は大変、オマケに生活費を自分で稼がねばならない境遇だったわたしにとって唯一の息抜きだった。月に数えるほどしかないオフの日の一つを必ずクラブにあてていた。

バンドもしていて楽しかったが、遊び場であり戦場であるライブハウスでは女子であることに起因するゆるせない案件があったため(mixiで書いたがそのうち転載する)、次第に純粋に客として遊ぶ場所はクラブへと移行していった。

そこでは変なプライドもなく皆が享楽的にお酒を飲んでタバコを吸い踊っていて、踊るのに疲れたらいつでも休んでいいし、誰としゃべってもいいしナンパをしてもされてもオーケー、要するに人に迷惑をかけなければ何をしたっていい本当に自由でわたしにとっては神聖な空間だった。

好きなジャンルの曲がかかるとブースの前に行き、お酒片手にいつまでも踊り続けた。多少の疲労では止まらない。疲労の限界点を越えて踊り続けるのも楽しい。いつだったかあまりにも生活に疲れていた時期にクラブで踊っていて、「まるで自分は音楽が鳴っている間だけ動くゾンビで、DJは現代のシャーマンみたい」と感じたことがある。

それくらいソトの世界のあれこれを忘れさせてくれるものだった。過去、わたしにとって生き延びるためになくてはならないものだった。きっと他の客だって多かれ少なかれそういう要素を求めて集っていただろう。退屈で過酷な日常を生き抜くために、あの空間は必要だったのだ。

 

わたしは文字通り全身全霊をかけて遊んでいた、ダンスフロアにすべてを捧げていた。最前列で踊ること、気軽なあいさつ、カクテルなどは意味がなくて意味があった。

 

それがなんだ。今やそういったことや、それらを記録にのこしておくことがバカにされているのだ。同じフロアにいる男たちによって。こんな矛盾した、かつ理不尽なことがあるだろうか。

「ただ、楽しむこと」フロアの原理はこれに尽きるといっていい。時に忘我の境地に至るまで楽しむこと、しかし気軽さを失わないこと、この論理を愛していた。

だけど今は、踊らせる側の登場人物も、踊る側の登場人物も、同じ踊る人間を貶している。徹底して重さのない、あぶくのような形のない夜(だからこそ、パッケージングして脳に残すのだ)を愛する人間を。貶す者にとってソレは仲間じゃない。女だから。

 

フロアはジャンル問わずサブカル男子の馴れ合いと化した。わたしの遊び場だってそうだ。イベントの細分化や身内化が大きく関わっているのかどうかは分からない。だって某有名ラッパーが客の女の子たちの遊び全部を無意味と評価を下したくらいだから。

 

原始、フロアは太陽だった。

あからさまな悪事は排除され、あとは自己の倫理で律された。だれとでもなかよくできたしだれともなかよくしないこともできた。

 

だからちゃちな、非常にこどもっぽいマッチョイズムが浸透したならもう終わり。軽さの論理にマッチョの重みを持ち込んだ時点で神は死んだし、その重みが理論化されるほどの強さを持っていないために余計厄介である。あくまで無自覚な「気軽な」会話として男同士で語られるのだ、某ラッパーのRTのように。

一介の客もダンスフロアの論理を最も体現するはずの演者もそういう表明をしたのだ。わたしはあきらめた。

生き延びるための場所がなくなったら、また次を探そう。同じような遊び方じゃないかもしれないけど、しょうがない。だって、何が起こるかわからんファンタジー性はもうクラブにはないのだ。

いや、違う。ファンタジー性がなくなったんじゃない。フロアでは今でも何でも起こり得るはずだけど、何が起こっても正しさや価値はホモソーシャルな目線によって評価されてしまう、ということだ。

 

女の子たちのやってることが「すべて無意味」ならばあなたがたはきっと<意味のある>行いをしているんだろう。フロアの論理を愛していたわたしからすれば馬鹿げたことだ。せいぜい<意味のある>もの同士でなかよくしていてくれ。

夜におしゃれすること、出かけること、集まること、踊ること、話すこと、踊り疲れること、刻みつけること、忘れること、遊びの世界が汚されたからさよーならしよう。

新しい遊び場を探し当ててサバイブする。息苦しい場所から脱出して冒険し新天地に飛び込むのは慣れているから大丈夫だ。”過去はどんなに暗くとも夢は夜ひらく”っていうしね。