「逃げるは恥だが役に立つ」においての呪いとはなんだったのか ポジモン・ユリ編

逃げ恥が終わってしまった。

最終回を楽しみにしつつも終わってほしくなくて複雑なきもちだった。

 

このドラマはすごい。初回から視聴率を落とすことなくむしろ終わりに近づくにつれて上がっていき、普段は民放のドラマなんて観なさそうな人が「逃げ恥面白い!」と言い、どこを向いても恋ダンスの話題でもちきり。この大流行りのなかで、最終回を観た私は自分の中に巣食っていた「呪い」が、すこしだけ救われたことに感謝してちょっと泣いていた。

 

逃げ恥の視聴率が上がっていくにつれ、twitterのTLも火曜夜から水曜朝は逃げ恥関連のツイートで埋まるようになっていった。

その中でちらほら見受けられるようになったのは、「呪い」という単語である。

私のフォローしている人やフォロワーの少なくない数が、逃げ恥の中に「呪い」の存在を読み取っていた。

 

ある人にかけられている「呪い」がどのようなものなのか、どのように扱われるのか、そしてどのように「呪い」から解放されるのか……

逃げ恥がこんなにブームになったのはガッキー・星野源のかわいさやコメディアンとしての良さがウケただけでなく、「呪い」の描写をしたからだと思う。

誰もがあるある、と頷きそうな、どこにでもある強固な「呪い」、とくに女性をむしばむ「呪い」の描写が抜群に的を得ていたのだ。

 

前置きが長くなったが、逃げ恥の中で「呪い」がどのように表現されたのか、わずかながら書いていこう。

 

☆ポジモンとユリ

 

ポジモンで検索すると「ポジモン 嫌い」と出てきたが私はそんなに嫌いではない。奥さんに買ってやれと平匡に美味しい生蕎麦を教えてあげる親切なヤツだし、誤解を恐れずに言えばユリの「呪い」を最終的にとくきっかけになったのは、他ならぬ彼女だからだ。

 

みくりのおば・ユリは処女のままアラフィフを迎えたキャリアウーマンである。

ユリにかけられた「呪い」は、まず彼女が女性の自由をコンセプトにした広告を手がけた時のシーンで描写される。

 

広告が知らない間に「愛され」を謳うダサピンクなシロモノにすげかえられ、変更に抗議したユリは、社内の男性に結婚できないから必死だと陰口を叩かれてしまう。

無論彼女が独身であることと抗議には何の関係もないし、抗議は正当なものだった。だが、一度放たれた悪意は容赦なく確実なシミになって尊厳を汚す。

彼女は多分、今まで「愛され」ることが女性の至上命題だと押し付けられる風潮に抗ってきただろう。「愛され」ろという女性にあまねくかけられる「呪い」、おしつけられるジェンダーは、とても古く強い。このドラマのタイトルは得意分野で勝負しろという意味のことわざだが、女性はそれをしにくい社会なのだ。(女性はケアが天職だとか未だに勝手に語られるし、たとえ勉強や趣味に打ち込んでいて恋愛や結婚は別にいらないという状態でも恋愛市場に勝手に放り込まれ勝手に算定されがちだ)

その「呪い」から女性が逃げられて自由を手にできるフィールドを、ユリは仕事や生きざまを通じてなんとか作りだそうとしてきたのだろう。

つい最近もおっさんがアイドルに勉強ができても男に好かれなきゃ無意味といった内容の歌を歌わせたような社会で、ユリは風見に語ったように、結婚してなくてもいい、かっこよくあれるんだと年下の女の子たちが思えるようは存在になろうとしてきた。

だけど、それと傷つくのとはまた別の話だ。戦う人=理不尽な悪意や封じ込めに全く傷つかないということではない。

そして傷ついたユリに風見があくまで対等に接することで、彼女はケアされたように見えた。

 

が!前述したように、私は最終的にユリの「呪い」をといたのはポジモンだと考える。

 

風見がユリに真剣な好意を伝えるも、彼女はしりぞけてしまう(ちなみにこの辺りのユリは、自分が処女だった頃の自意識過剰さや挙動不審さを想起させて直視できなかった…処女に抱きたいとか言ってもキャパオーバーするって!風見さ〜ん)。

 

ポジモンがユリに直接対決しにいった場面は、ユリの「そんな呪いからはさっさと逃げちゃいなさい」という名言が視聴者から喝采を浴びた。私もそのことばにはおおいに胸をうたれたが、その後ポジモンがユリのもう一つの「呪い」を浮かびあがらせたことに心のなかの何かがとても動いたのだ。

 

ポジモンは最後の青空市場には登場しない。だが、ポジモンが風見を媒介にユリに伝えたことがある。

「おねえさんは風見さんのことが好きだと思う」「幸せな50歳を見せてみろ」

ポジモン判断ではユリは風見のことが好きで、なおかつ現在”幸せ”ではない。

これこそ、ポジモンが浮かびあがらせた、ユリにかけられたもう一つの「呪い」だ。

 

その詳細を述べる前に、ポジモン自身の「呪い」についても触れる必要があるだろう。

二度言うが、ポジモンは割といいヤツだし嫌いではない。そんなポジモンが悪辣なことばをユリに投げかけたのは、二倍以上年上の女に好きな相手をとられた敗北感が受け入れられなかったからだろう。

風見の分析によるとポジモンは消費されるくらいなら消費する側に回ってやるという気概の持ち主であった。それはそれで主体的に選び取った生き方なのかもしれないが、少なくともユリはあの場でポジモンが女性であるゆえに、若さを価値とするジェンダーにがんじがらめになった苦しさを感じた。消費する側に回ったとしても、若さや媚びを価値とする戦場というのは、息苦しい。だから、逃げてもいい、別の評価軸だってあるんだと、ポジモンにかけられた「呪い」をとくことばをかけた。

 

さて、そんなユリが風見を「年が17も離れている」からということで距離を置いてしまった。年齢を理由に好きな人に対して逃げ腰になっている姿に対して、ポジモンはどう思ったのだろうか。

ポジモンが風見をとおしてユリに伝えたメッセージは、おそらく、「私に別の可能性を提示しておきながら、あんたが一番既存の価値観にがんじがらめで弱っているじゃないか」という気持ちのあらわれではないか?

すでに述べたように、戦うことと傷つかないこととは同義ではない。奇しくもみくりが小さな傷でも繰り返せば深手になるとモノローグしていたように、ユリも既存のジェンダー意識に対しての抵抗を繰り返す中で悪意のシミに少しずつむしばまれて知らず知らずのうちに自信を喪失していると私は考える。それは私にとってかなり覚えのあることだ。草の根ラディカルフェミニストを名乗って女性に対する偏見や媚びをおしつけられる風潮に対抗している一方で、たとえば結婚できない自分(それがしたくないという気持ちを尊重した選択であっても)に自信を喪失している部分はある。近しい男性が女性蔑視的だったり、社会から勝手に恋愛市場に放り込まれたりしてつけられたシミは、一度染みると簡単に消えてはくれない。

 

それがユリの場合には年齢を理由に風見を避けるという形で出てしまった。ポジモンは、戦う女性が戦えば戦うほどいつしか深手の傷を負っていき自分自身ではリカバーしきれない構造を浮かびあがらせ、それだけでなく「幸せな50歳を見せろ」と望む姿を見せることで、ユリが自らA.T.フィールドを張ってしまうことを間接的ではあるが阻止した。

私はこの点において、ポジモンを賞賛するのである。

ユリにかけられた「呪い」とダブルバインド状態、そこから一歩踏み出させる表現は、ユリと風見の人間関係だけではなくポジモンの目をとおしたことで完璧なものになったといえるのではないか。彼女たちは相互に「呪い」をとくきっかけを作ったのではないかと、考えている。