【ここんとこの病状】
「ああアンタまた痩せたね!」
腕をひっつかまれて言われた。
「どこが? 前と同じ」
「ここの肉が削ぎ落とされてるよ」
削ぎ落とされた、という表現は興味深い。自分でやったのでなく他者によっておこなわれた、という意味合いが含まれている。
自分自身が何も望んでいなくても、誰かによって私の肉は溜め込むことを否定されているのだ。
まあ、食生活が太りようのないものだからだと思うけど。
白米にしらす、菜の花のおひたし、平茸のスープなんか食べている。
白い木綿のカーテンを洗った。
枕カバーを思いついて違う布にした。
むかしのELLEだかVOGUEだかの付録の、アメリカンアパレルの都市名総ロゴのバンダナ。
アメリカンアパレルはゼロ年代のパーリーピーポーの象徴で、バンダナは何回も洗っているのでいい感じにくたくたになって気持ちがよかった。
【他人の夢】
このところどうも馴染みの深い夢をみないな、と思ったら他人の夢に間借りしていたらしい。
草花が在った、ということだけ分かる空間にいた。そこには枯れた背の低い植物しかなくて、歩けるところを示すようにぱさぱさの土のみの道があった。
死者の夢…既に現実世界でなくした人の精神世界へ、どうも無意識上でアクセスできたらしい。
死者に会う方法は簡単で(人によってはとても難しいかもしれない)、どんなかたちでもいいから顕現してほしいとひっそり願い続けていればよい。
『るなしい』の3巻で、みんな神様のことを「温厚な、ふんわりハッピー❣️にしてくれるもの」みたいに思ってる、もっとヤクザなものなのに、というくだりがあった。
人間関係を手放す代わりに出世を願った人が、恋人が怪我をするなんて聞いてない、もしそんな風になると知っていたら願わなかったのに、と文句を言ったあとのシーンだ。
神様はヤクザなものだという考え方に同意する。人智を超えたものは人のコントロール下にない。
だから、制御不可なものにお願いする時はどんなかたちでもいいから…とリスクを受け入れた方式でしか願ってはいけないしそれ以外のかたちで成就することを期待してはいけない。
話を戻して、間借りした他人の夢はどこまでいっても茶色一面のさびれた空間だった。
私はそれでも親しみをおぼえる。持ち主が手入れしていないことが明白の精神世界は、確実に現実を反映していた。
生きていた間だってその空間のownerは立ち止まって自分の心を省みることはなく、どんどん溟い分岐を辿っていくだけだった。その人が住んでいた部屋は、精神状態を反映したように、まるでスラムみたいな有様だった。
一度もブラシでこすられなかった便器、ぬめりさえとられず黴だらけの浴室、ゴミ袋がたまるだけたまって人ひとり入ることすら出来なかったキッチン、殆ど私物のないベッドルーム。遊び心のある品物はオモチャの銃(といってもとあるブランドが作ったものでかなり精巧な品である)だけで、かえってものがなしさを加速させていた。
くつろげるのは、わずかに十数センチ四方の灰皿があるところだけだった。
それら全てが懐かしくて、同じように荒廃した枯れた世界を慈しんだ。
死者の残したものは私が奪い取った服一枚しかない。そのぬのきれを私はベッドの隅に放ってぬいぐるみで隠している。目に入れるのは悲しいからいやで、でもふとした時に香りが漂ってほしいから。
枯れた植物のまんなかで、私はぬのきれを抱きしめた。願いが顕現したからオブジェクトは現実と超現実の中間から発生する。
まだここにいるしかない…振り返って見るには、悲しみが新鮮すぎる。
【音楽の紹介】
2023年3月6日私は久方ぶりの熟睡をする。
風呂上がりの真っ裸で、服を着てから寝る用意をしようと思っていたのにそのまま眠ってしまった。
ゆえに音楽も電気もつけっぱなしで、寝る前に再生していたプレイリストがかけられたままだった。
プレイリストは2000年代にニコニコ動画で作られた作業用BGMが何個も入っている。あの頃のニコニコ動画はすごく音楽に詳しい人たちが良い作業用BGMの動画をよく投稿していた。
原風景という言葉があるけれどあれは人ひとりにつきいくつかあっていいものだと思う。
ニコニコ動画が廃墟になっていくにつれ誰もが投稿しなくなった。あの文化がなかったら私は一生睡蓮もChris Clarkも聴いていない。
起きてからニコニコ動画とYouTubeのお気に入りリストからSpotifyに現存する音源を追加していく作業をした。
いつでも自分を自分に浸せる手段を持っておかないと、私もあの空間のように枯れ果ててしまう。