墓参りという単語は適当でないように思われる。
初夏の頃、多忙を極めているある日私は「おはかまいりをしたい」と思った。記憶がぶっとぶほど忙しいのにポロリと心の中にその願望はおちてきてストンとおさまった。
仏サンは早うに亡くなった後輩のことで、彼は数年前に死に、通夜に一度、また一度線香をあげにいったものの、私が東京へ来てからはコロナ禍のため彼の所には行ってないのである。
もとより外出自体が憚られていたため、人の多い東京から岐阜の方へはなんとなく行きにくい。
私は乳飲子や年いった方と住んでいるバンドメンバーとも、感染すのを恐れて会っていないくらいなのだが、ふと思い立って同期の一人に「そろそろ墓参りをしたいのだがどうか」と尋ンねてみた。
すると、「俺も気になっててん」とのことだったので、もう何人か同期を呼びグループLINEを作ってスケジュールを立てることになった。
三人集まって行くことになり、親御さんに連絡して「夏のうちに参ります」と言ったら「うちはいつでも構いませんので決まったら教えてください」とのことだった。
日程は自由だとして、さてルートをどうするかと三人で思案した。三人はそれぞれ東京、奈良、広島から行くのである。
岐阜県民からは皆「帰る時は名古屋まで新幹線を使った方が速いから岐阜羽島駅を使ってない」と聞いていた。なので、順当に行けば名古屋で集合してローカル線を使うことになるのだが、私は岐阜羽島に行きたい、と思った。
そのうち広島の人間が「自分は新大阪までのセットのきっぷが安いからそれを使う」と言ったので、京都駅で集合して、ひかりかこだまで岐阜羽島へ向かうことにした。
当日は、先週までの嵐がウソみたいにカンカン照りで薄手の黒のドレスはシフォン素材なのにバカみたいに熱くなった。
年月の経った墓参りにどういう服装が適当なのか私は知らない。
喪服を連想させる黒のセットできめて、ただし固くなりすぎないコーディネートにした。真珠のアクセサリもバロックで仰々しくない。
京都駅で菓子や花を買い込んで、三人で新幹線に乗ると1人は<ジョイ・ディヴィジョン>のTシャツを着ていた。
<ブルー・マンデー>ないしはイアン・カーティスのことなんだろうなとすぐに気がついた。まったく、あの歌詞の通りに…
https://open.spotify.com/track/1RSy7B2vfPi84N80QJ6frX?si=o24zh1Q5Tx24mMQRkcbKoQ
私は既に霊力を喪ったため道中、そして墓前で何も聞けないのかもしれない。しかし旅路は始まった。
…大阪で前泊していたら、気の置けない人間の横で久しぶりに夢を見た。日常の残滓のような何の示唆も修験もない夢ではなく、喪う前に見ていた、何かしら自分に意味をなす夢を。
とてもたっぷり寝て、寝ても寝ても寝たりなくて、許されるのであればずっと友人の横で眠っていたかった。
その後、昼飯に難波で華風料理(これは食べてしまえば戦意を喪失させるというとんでもない中華風家庭料理である)を愉んでゆったりと過ごしてから京都に向かった。「闘病」している身であるからなのか華風料理の効き目か、眠りは常につきまとった。このところ、全然眠れていなかったのに。
大阪では白い猫の亡霊も見た。猫?
再び旅路…新幹線でお菓子をつまみながら、「私は年月いってからの墓参りはどうしようかと考えててな…行きたいとは思うけどいつまで行っていいものかと親に聞いてみたんや。そしたら親は"行きたい思ううちは行ったらええんや。気持ちのことやから"いうてたわ」と話した。
親が東京観光に来た時に、年の功に頼ってみようと鰻屋で聞いてみたのである。
鰻屋は大層良くて川を眺めながら食事が出来、東京ならではの白焼と、う巻きが美味かった。(う巻きは母親が気に入って2回も頼んだ)
「亡くなった後輩の所に…」と話すと、「あああの割とはように亡くなりはった子やな。あんた仲良かったんちがうか」と親は後輩のことを覚えていた。
鰻屋は文豪が好いていた所で、もし生きてたら後輩が遊びに来た時なんかにここに連れてこれたんじゃないかと少し涙が出そうになった。
蛇足であるが岐阜から帰ってきて疲れですぐには動けず京都に一泊する、と親に言ったら「なんでやねん」と返ってきてやや憤慨した。疲れを労わり給へ
ともかく、三人は無事岐阜羽島へ着き、ローカル線で最寄駅まで行った。暑くてやばかった。
白のベンツで迎えにきてもらい、後輩の家に行ってお花を渡した。
花は、「いかにも仏花!というのはやめにして! 少しカジュアルな花も入れて夏向きの色で…」と時間のない中無茶苦茶言ったが広島県民がちゃんとイメージ通りのものを買ってきてくれた。
暑すぎて生花はすぐに傷んでしまうので、ケイトウのような比較的丈夫なものが入っている。
岐阜での昼食は、あらかじめ父上とご一緒すると決めていて、後輩が通っていたという和食の店に行った。
寿司が美味くて私は店を気に入った。
物書きはおしなべて食事に五月蝿い。五感の発達に関係があると思うのだが味覚の優れていない物書きは見たことがない。だから小説家や詩人が通った店というのははずれが少ない。
後輩は小説家だったので、近場で旨味を堪能できる此処をよく使ったのだろう。
そんな話を父上にしながら、「参りにきた」ということについて、写真の中の青年がおぼこいことについて、8年経ったことについて、旅路にきて眠りが元に戻りつつあることについて、「ふっつ・岐阜羽島」という彼の小説について考えていた。
学生時代の後半は、心身を崩して実家から新幹線で京都まで彼は通っていた。
死者の通り道を、生者の病人も通った。
きっとこれがやりたかったのだと、岐阜羽島経由のルートを選んだ理由が腑に落ちた。
私は参り詣でている。
墓は、山に囲まれた寺の中にあり綺麗にされていた。暑すぎて蚊の1匹すらいなかった。
墓でも、仏壇でも、私は「霊力をうしのうたけれども何か言いたいことはないのか、言い残してないのか」と心で問いかけた。
山すそのとても小さいお地蔵サンの所に、真っ黒な猫が鎮座していた。涼しさを求めてそこに座っているのだろう。
白い猫の亡霊と黒い生きた猫が答えを出してくれていた。
暑くてしようがなかったけれども、斯くして詣では終わった。
帰りの駅の土産物コーナーに、チャバコと称した、煙草のパッケージをもじったお茶の土産が売っていた。ピースのパロディもあった。彼が好きだった銘柄…
喫煙室で、「十分だな」と詣でた甲斐を紫煙を見つめながら感じた。
でもね、
But if it wasn't your misfortune, I'd be a heavenly person today!