焦げた後に湿った生活

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贅を尽くすということ

不景気になってきたからなのか贅沢病、という言葉をとんと聞かなくなった。

 

私が小学生の頃は心臓の病に罹ったり肥満になったりすると贅沢病といわれたものだが、経済に余裕が生まれ高脂質の食べものを頻繁に摂取することからきているらしい。

現在では貧乏人はとりあえずお腹を満たすのに安価な米と揚げ物だけの弁当やチェーン店を用いるため、この言葉はそのうち化石になっていくことだろう。

「ちいかわ」を読んでいても思うが、日雇いで家が買えず洞窟暮らしのハチワレは炭水化物ばかり食っており、現代の貧乏をいちいち説明せずとも描写出来ている。

 

で、私は赤貧チルドレンの生まれだが贅沢が何かは知っている。

森茉莉が書いていたが、本物の贅沢というのはサラリーの額によらず心持ちによるのだ。

どんなに高価な指輪をつけていても指輪を失くしたら…と後生大事にしていればそれは贅沢しているとは言えぬ。

給与やへそくりのうちで揃えられるモノをサラっと身につけていれば贅沢である。

 

私は霊媒師の家系であるから赤貧の家でもマガイモノの宝石は買わない。宝飾品はファッションの他魔除けに用いるからだ。

風呂さえなかった貧乏な祖母の家で、時折見せてとせがんだら、オパール、オニキス、珊瑚…とネックレスや指輪が一通り揃った箱を祖母が開けてくれて見入ったものである。

 

日常つけているのは一応本物の金と銀の、対にしている指輪でそれぞれ薬指と人差し指にはめるが、生来の注意力不足のせいで数えきれないほど失くしており、失くすたびに買いなおしている。

アクセサリーショップの方でも保証期間の終わらないうちからどんどん失くして買い直す客だから、いい加減顔を覚えているようで来店してもことさらセールスされない。

ある日いつものやつをまた失くした、と言ったら店員が「お客様は大変指が細いですから外れて落とすのでしょう。多少はめる時にキツくても、ワンサイズ落としたらどうですか」と提案し、早速採用したが今度は置き場所にない、ない、が多発して結局店員は今まで通り接客することになった。

 

この店で買った指輪(同じもの)の総額でそれなりの宝石がついた指輪を買えるであろう。

しかし、気楽に身に付けられて買い直しできる値段でデザインが気にいるものもそうそうなく、私はこの全国チェーンのアクセサリーショップを使い続けている。万が一廃盤になったらCEOに土下座してでも廃盤取り止めにしていただきたい。

 

その他、調度品や寝具、タオル・ニットの類いも安物買いはしない。

昔は結婚がイエ同士の話で(本人の意思とは無縁に)早かったものだから、嫁入り道具はちょこちょこと余裕のあるうちに作っておき、母が21才の時に泉州から持ってきたという三面鏡は未だに実家で健在である。

 

祖母は毛布とニットを作っていたし泉州はタオルの名産地なので、うちにある寝具とタオルで安かろう悪かろうの品はなかった。

人の家に寝泊まりするようになって初めて煎餅布団というものを知り、こんな布団では膝や背中を痛めてしまうわと思った。

 

引越しの際煩わしいので関西に居た時の寝具は全て人に遣ってしまっていて、東京に来てから新たに毛布を買ったら同じシェアハウスに暮らしている女の子が「1万弱もする毛布を買ったの」と驚いていた。泉州毛布と西川のコラボなのでそのくらいの値がつくのは当たり前なのだが、「私は寝るのが趣味なので寝る時のものはいいものを使いたい」と軽く言って済ました。

私は最近流行りの暖かく乾きやすい便利な化繊は大嫌い、あんなもので寝ていては汗だくになってあせもがすぐ出来ると信じている。

もう引っ越したが同い年の男の元同居人も良い感じの毛布を使っていて、長いこと使っているのか色は褪せていたがタグを見たら西川の毛布だった。

(その人は睡眠は大事だとよく言っていて、睡眠に係る物を良いのにしたに違いない。ただし敷き布団は煎餅で、畢竟男子というものは生まれ育ちに関わらず敷布団に金をかけないというかどうでもいいと思っている傾向がある。お金持ちでもそうでなくても、男子の部屋にある敷布団は何故か煎餅だ)

 

タオルもお買い得品とはいえ泉州のもので揃えており、日常手と顔を拭くのに使う雪白のタオルはわざわざ泉州の会社に通販で頼んで、10枚入りのうち9枚を3箇所ある手洗い場に配置することにしている。1枚は家事の担い手の手間賃として着服した。いっぺん洗って少し柔らかくしてから枕カバーにしている。

泉州タオルのなかでもことガーゼのバスタオルは使い心地が最高で、客が来た時大判のそれを夏なら掛け布団、夏以外なら敷きシーツの代わりにしてもいい。

 

さて寝具の話はこれくらいにして、この書き物のコアーは「無理のない範囲で贅沢をせい」ということである。

愛する人から贈られた品ならば安物でも高価なものでも後生大事にしていればいいが、自分でやる分には贅沢の香気をまとっていなはれ、ということだ。

 

贅沢の香気は資本主義的にカネを使って経済を回すというのでは出てこない。単にブランド品を持ってても出てこない。

目利きと気概があれば出てくる。

 

百貨店の服屋に行って、「ここからここまでぜーーんぶ呉れ」と言ってみるのは一生にいっぺんくらいはやってみたいが一生にいっぺんでは贅を尽くすと言えぬ。

もしやるとすれば、銀座の某アンティークショップで「ここの棚にある嗅ぎタバコ入れを全部ください」と言ってみたい。

いつの時代なのか、嗅ぎタバコが日常的に使われていた時分には繊細な細工の個性的な嗅ぎタバコ入れが作られていて、その店は一棚にずらっと小さな美しい嗅ぎタバコ入れを並べているのである。

無論今日日嗅ぎタバコなど誰も使っていないから、目で楽しむためのアンティークとして売られており買い求める好事家がいるのだ。安いものであれば3万くらいで買えるし、骨董として価値があるから己が死ねば誰なと持っていけばよい。

 

また、最近偶々入ってみた、耳の遠いお婆さんが1人でやっている居酒屋で食器が良いのに感心した。

その店は安く飲み食いできるのだが、よくよく見たら豆皿は全て同じ柄で揃えられていて風流な柄だった。豆皿なので高くついたとしても大した値段ではないだろうが、日常目にして使うものに美意識を発揮するのは結構な贅沢である。

 

喫煙してもいい店なので灰皿を出してくれるように頼んだら、平目かカレイかをモチーフにした鉄の灰皿で、何ともいえぬ良い持ち味があった。この今にも天に召されそうな婆さんが相当の目利きだと分かった。

使い込んで馴染んだ風合いだったけれどもすごく気に入ったので「これが欲しい」と言ったら、お婆さん曰く「南部鉄器で今は潰れた会社が作っていたのでもう売ってない、ある劇団が目をつけて借りにきたが一向に返しにこないので人に貸すのはやめた」とのことなのでお金を積んで買い取るのは出来なくなった。

岩手の方にいけば似たようなモノが手に入るだろうとも言われたが、お婆さんが80を越しているから同じセンスを持った同時代の職人は存在するかどうか微妙である。

 

お婆さんの料理はどれも美味かったが、生姜と糠をきかせたきんぴらを気に入って「昼にこれと白米だけで済ませたい、そして食後のお茶。こういうのを食べた後なら玉露より番茶の方がかえって良い」と話していたら、先に客で来ていた1人の中年男性が「あなたよっぽど食が好きなんですね、僕もそういう食事が好きであえて冷や飯にするんです」と呼応し、茶と冷や飯談義になった。

昼のうちに、固くなっていなければ冷や飯を出して、美味い漬物やへしこと一緒に食い食後に番茶を啜ればこの世の春だ。

 

男性から教えてもらったのはせっかく関東にいるなら棒茶を試してみればいい、神奈川で手に入る、とのことだった。

私はお小遣いの中から三重県産の番茶を買っている、茶なら多少高いといっても数百円だ、数百円でイイ思いができると話して、男性が「ハハァ確かに三重や奈良のあたりも茶農家が多いですね」などとウンウン頷いていた。

私が買っているのは手摘みで茶を生産しているところで、京都のオーガニック式レストランに行った時お茶が美味くてびっくりしたので店員に頼んでどこで仕入れたか教えてもらったものである。

 

寝具、灰皿、茶、懐紙など、手の届く範囲で目利きして生活に金を使うのは立派に贅を尽くすことである。

さくらももこはヘビースモーカーである分、人より余程健康に気を遣っているとエッセイに書いてあって、色々凝っている中でもお茶は年に一回中国へいってまとめ買いをすると言っていた。

中華街でも茉莉花茶のパックは手に入るし茉莉花茶やプーアール茶など私は好きなので中華街へ寄ったら買うが、お茶のために中国のドコソコ省へ行くなんて何とも豪気ではないか。

 

ユニクロマクドで満足する日本の若者、と言って上野千鶴子がバッシングされていたが何故バッシングされているのかわからぬ。3回洗ったらへたる服、へたへたの炭水化物で満足するのは紛れもなく文化の衰退である。

 

近所で彼女をバッシングしていたのは吉祥寺のボンボンだ。ボンボンといっても、中流階級の上澄みの方で京・上方のボンボンのような気概はまるでない。(私の知り合いで京都や大阪生まれのボンボンは、皆あっけらかんと俺はボンやからなと言う)

私は上澄み男に対して内心「バカがよ、明日食う寝るに困らない身分で何貧困を語っておる、贅沢貧乏も出来ない癖に」と小馬鹿にしていた。何も考えずにスーパーで鶏肉を買い俺は自炊が出来ると威張っておればよい、アッパー層、ミドル層で開き直りも出来ずその癖文化の衰退の目利きも出来ないのであればもう贅沢も貧困も語るなってんだ。

 

ちなみに此れはある喫茶店でチョコレートのパルフェを食べながら書いている。

何の変哲もない小規模な街の喫茶店なものの、テーブルは大理石で、飾っている植物はダミーでなく全て生きた観葉植物、入口に観賞魚の水槽があり、壁にはマーメイドをあしらった鏡やカメオ風の飾り、アクセントにブルーの硝子の置物が配置されている。

 

チョコレートパルフェはコーンフレークなぞ敷かず、バナナ、みかん、黄桃、バニラアイス、生クリームにたっぷりのチョコレートソースと本物のナッツが入っている。

ここで綺麗な調度品を見ながら一服するのが赤貧チルドレンの贅沢だ。1人で入れる品のいい店をいくつか持っておくのも贅沢である。

 

あと沢山書きたいことはあるが赤貧故晩飯の支度をしなければならないので一旦筆を置く