8/8 22時、鳥目が「〇〇に行く」って言うから、私もどこかに行きたくなったんだ。
白のコットンワンピースに、コンパクトなカーキ色のスーツケースと小さなポシェットだけ持って、東京駅構内で佇んでいた。
こういうときすぐにどこかに飛び立てる「速さ」が良くも悪くも自分の特徴で、つまり本気で都外(そういえば都内って単語はあるのに都外というのは全然使わない気がするな)へ向かおうとしていたのだけれども、現実的には用事が出来てしまい、青梅の家に母と帰ろうとしていた。
東京駅のある場所に、日本中のすべての「終電」が表示される電光掲示板がある。
母と上がりのエスカレーターに乗りながら、「三鷹 0:××」「宝ヶ池 23:××」「和光市 0:××」といった字面をぢっと見ていた。JR中央線だの叡山電鉄だの、節操がない。叡電に乗ることはもうない。
乗り換えのための大きなフロアーに着き、青梅方面の終電の時刻を確かめた。遅い時間帯に青梅方面にいける都内にしてはうんと早くて、あと2本を残して無い。1本目は2分後だから、重い荷物を持ってせかせか移動するのがかったるく、20分後の電車に乗ることにした。
母は余裕をもって乗るために先にホームへ上がった。私は、日本中の全ての終電の表示を眺めて旅情にひたっていたかったので、乗るべきものが来るまでフロアーに留まることにした。
成田行や長野行、東北方面へなどに向かう色々な電車がある。これらのうちどれかひとつに乗ったら、東京から退けるのだ。どこでもいいのに、どこにも今日は出られない。
電光掲示板を眺めているうち、乗るべき電車のホームでちょっとしたトラップがあることに気が付いた。ホームにいる母に「青梅方面最後2本の電車のあいだとあいだに、違うところへ行く電車が一本あるから、間違えて乗らないように気をつけて」と言うため、少しの間だしとめんどうくさがりスーツケースを置いて、階段を上がって伝言しまた下に戻った。もう一度荷物を取って、時間になったらエレベーターで…と考えていたところ、なんと私のスーツケースは忘れ物とみなされ駅職員に運び出されようとしていた。
「待って! それは忘れ物じゃなくてただ置いていただけです」と軽く叫んで走って追い着き、無事職員から荷物を回収してほっとしていると、嘲笑がきこえた。
音のした方向にふりかえると、声の主は、スーツを着た若い男の三人組だった。全員、20代なかばといったところだろう。一般的なモサいサラリーマンスタイルとちがって、紺の細身や、ややブラウンがかったオーダースーツを着ており髪型もちゃんとスタイリングしている。商社マンといった風情だ。
一体何? という表情を作ると、彼らは「fuck」「fuuuuuuuu-ck」と嘲りはじめた。何が何だかわからないが、彼らは私を外国人と思っており(実際国籍上そうなのだが)、どういう理由なのか、いびることにしたらしい。
「じゃかあし、黙れ!」
そう言ってホームへ歩むと、彼らはプッツンきたのか追いかけてきた。自分たちから絡んどいて、理不尽だなあ。大荷物を持って、男三人相手はさすがに無理。三十六計逃げるに如かずと階段をかけあがり、そのへんにいたおじさんを捕まえて「早く駅員を呼んで! お願い!」と切願した。おじさんがポカンとしていたのでイライラしたが、そのうち彼は私の必死さをのみこみごったがえす人々のどこに駅員がいるのか探し始めた。
自分でも駅員を探していると、彼らが追い着いた。もう臨戦態勢である。
「fuck」だの「bitch」だの、きたない言葉を使いながらこちらを追いつめようとしてくる。
三人同時は対処出来ないしなんとかひとりひとり相手できないか、なんて思考してもしょうがないくらい余裕がなかったのでスーツケースを一度ぶん回して牽制しつつ射程距離をはかっているところで、ようやく駅員が割って入ってきた。
彼女(駅員)に「この男たちに絡まれているんです」と伝えた瞬間に三人組は逃げていった。きっと会社に連絡されることになるからやばいと判断したのだろう。時刻はもう終電車のぎりぎり1分前だった。母が電車に、と駅員に言うと、彼女は一緒に車両前まで、と私に同行し、まさに発車せんとしていた電車の車掌に短く説明して電車を止めた。
おかげで私と母ははぐれずに済んだ。この場合、終電を逃すことよりはぐれてしまうことの方がやばい気がする。過ぎ去る車両を視認したあと、くるりと向きを変えて駅員に「ついてきてください」ときっぱり言った。
ずんずん進んでいく私の後ろに、駅員と母が続く。
「一体、どこに行くの。」
「成田行きの場所。」
果たしてかのevil thingsはそこに居た。
同じ会社内の一団らしきグループの中に。三人の他にもう二人男と、一人女がいる。皆きちっとしたスーツに、革靴かヒール。
商社マンなら成田空港からいずこかへ飛ぶだろうと踏んでヤマカンを張ったら当たったわけだ。
「Allo, guys? さっきはどうも」(いつもhelloというべきときにフランス訛りにする癖がある)
私が何か仕掛けようとしていることに気が付き後ろでわめいて止めようとしている母をふりかえりもせずに右腕で制しながら言ったら、さっきの男三人組の表情は凍り付いていた。
まさか居場所がバレるなんて思ってもいなかったんだろう。残念ながら推理力だけは異常にいいのだ。
「よくもやってくれたわね。私は何もしてないじゃない。なのに何? 殴りかかろうとしてきちゃってさ。駅員を連れてきたから、彼女を通して鉄道警察の手続きをするわよ」
男たちのうち、リーダー格とみられる紺スーツは、この時まだ冷静だった。私の方を見向きもせず、おたおたせずに上司先輩とみられる人々に対して「そんなことあるわけないですよ」の旨を的確に発していた。おそらくこういったことの常習犯だ。
「ねえ、あたくしアタマがワルイからもう一度教えて下さらない? あなた確か、"fuck"とおっしゃったのよね」
内々に向けてうまいこと「変な女がいちゃもんを付けてきた」ふうにおさめようとした紺スーツの最後あたりのことばをさえぎり、ニッコリ笑顔を作って彼が話しかけていた上司と目を合わせながら尋問した。上司の男は40才くらいか…仕事に慣れ世故長けており、人も悪くないのだろう。そのような印象を受ける。しかし、長年世間に揉まれて「一人前」でもこんな事態は予想外だっただろう。彼はよそむきの笑顔に釘付けで呆けていた。本当か? といった目で軽く口が開いている。
紺スーツは少し焦りはじめたが残りの二人は押し黙っている。所詮半グレの絆などこんなもんである。殺生だなあ。助け船でも出してやるか。
「あと…そことそこのお二方にも念のため確認しますわね。あなたがたも"fuck"と言いながらあたくしを追いつめてきましたわね。再確認してお手数をおかけしますわ」
いよいよ寧悪な笑みでニヤニヤしながら言い放った私を見て母はもうあきらめていた。娘がネゴシエーションに関して才能があり、悪だくみをしはじめたら止まらないと知っていたからだ。
三人組の上司は、おそらく男たちの裏の顔を知らなかったせいで、部下をかばおうと「証拠はありますか」と言いかけたが無駄だった。
「確かにこの方々はそうおっしゃっていました」と駅員が添えた、ので。
上司(仮)はAs I thought, 仕事ができる男だったようで、一瞬で切り替え、「お前たち、さすがにf wordはダメだろう」と真面目に紺スーツへ向かって言った。反論出来ない雰囲気を作っている。
仮にも業務中に、という話からはじまり「だいたいお前は前々からこういうところが甘くて」と仕事上のダメ出しになってきたところでいやそんなことどうでもいいから私に謝ってほしいんだけどなあと思いながら、田中圭似の、三人組の先輩にあたる男性に「あら、あたくし…着弾させちゃったのかしら」と耳打ちすると、「いいえ、あの人はいつもこうですよ…そして、」
そして、の続きはなかった。田中圭(似)がただ申し訳なさそうな顔をしたからだ。口に出せない種類のものごとは口にできない。事態はまったくそのたぐいのことだった。外国人の、日常。
また、顔はこう言ってもいた。
(いいから、言っちゃいなさい)
「ともかくあたくしあなたがたに反省して謝っていただきたいんですが」
「この度はまことに申し訳ない。弁解の余地もない…」
三人組の代わりに、上司の40ヅラが言った。
これから、三人組は二度と同じことをしないだろう。(外国人をいじめてはいけないと思ったからではなくて、底つき体験をしたから。) 私は田中圭(似)の名刺が欲しいなあ、と思った。
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これはもちろん夢の話だよ、でも本当に起こったことなんだ。